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🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その16)
15世紀中頃から約100年間にわたるアイヌと和人の争いは、北海道西南部の日本人占拠を確定し松前氏による封建支配が確立し、この頃、行商人を起源とする近江商人の活動がこの地にも波及していた。
「高島南市」「八坂」「薩摩」「田中江」といった「五箇商人」を起源とする近江商人は、室町時代後半から北前船に到着した荷を小浜や若狭から九里半街道や七里半街道を通り、琵琶湖水運を利用し、輸送していた。
琵琶湖沿岸の「五箇商人」と対立していた湖東内地の「四本商人」は、大坂や京都への販路を拡大し、郷里とともに繊維や呉服問屋などに発展していった。一方、琵琶湖沿岸の「五箇商人」は主に海の物産を扱った商品が多く、琵琶湖水運を利用し、発展していったが、その他の輸送手段の発達により琵琶湖水運の優位性が無くなり、東北や北海道へ行商を拡大していった。
戦国時代になると湖西や湖東沿岸の「高島南市」「八坂」「薩摩」「田中江」などの「五箇商人」は、大名の保護を受けた「四本商人」に販路を奪われたため、衰退の一途を辿り、商売の地を求めて、郷里を捨てる近江商人も続出していた。特に彦根の「薩摩・柳川」や近江八幡の「田中江」の地から両浜組として、北海道(蝦夷地)の松前藩に活路を見いだしていた。
松前藩士が俸禄として得ていたアイヌの海産物の交易権の行使を、主に近江商人が請け負い交易を発展させた。利用港として隣国の若狭の小浜、あるいは越前の敦賀が用いられた。またこの船の船乗りには越前や若狭・加賀・能登など北陸の船乗りが用いられた。主に活躍した松前藩の近江商人は田附新助、建部七郎右衛門、藤野四郎兵衛、岡田弥三右衛門であった。
●北前船
江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。
●松前藩
松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前家であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。
●シャクシャインの戦い
1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。
●田付 新助 (初代)
1581年− 1632年は、江戸時代初期、蝦夷地に進出した近江商人田付新助家の初代。田付景澄の子。屋号は福島屋。
田付家は、佐々木家支流六角氏遺臣の家柄で、1573年織田信長の攻撃により田付氏が籠る田付城(現滋賀県彦根市南三ツ谷町)が落城した。田付新助は、田付落城後の1581年近江愛知郡柳川村(現彦根市稲按司柳川)に生まれ、後に諱は景豊と称した。田付は田附とも書かれるが、本稿では『寛政重修諸家譜 第7巻 宇多源氏佐々木支流田付』記載に従い、田付を用いた。
数え14歳で武士を捨て商人を志し、同郷の建部七郎右衛門元重に相談の上、奥羽に赴き松前を調査し、蝦夷地各地を回り豊富な水産資源の将来性に着目した。その後、蝦夷地での事業協力者を故郷である近江柳川村・隣村の薩摩村(愛知郡薩摩村(現彦根市薩摩町))で有志を募り『両浜組』を組織し、近江商人の本格的な松前・蝦夷地進出に道を開いたとされる。
1602年津軽の鰺ヶ沢、1609年渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に店を出し、自分の船を持ち物産の輸送と販売を始めた。これ以降、田付一族は蝦夷西海岸での漁場開拓とともに漁法・漁具の改良、漁獲物の加工・販売に取り組み、松前藩の『場所請負人』として蝦夷地経営に深くかかわった。また、漁獲物などの蝦夷地物産の運搬は、松前から日本海航路で敦賀で陸揚げし、七里半越と呼ばれる山道を経て琵琶湖北岸の海津港(現高島市マキノ町海津)に運ばれ、琵琶湖水運により故郷である柳川の港に集積し、その後京・大阪へ販売を行った。柳川港もこのために田付新助により開設されたと言われ、また付近の来向川も新助の開削とされ、のちに灌漑用水路として使用された。
●建部 七郎右衛門
安土桃山時代から江戸時代初期、蝦夷地進出の先駆けとなった近江商人。屋号は材木屋。
建部七郎右衛門、諱は元重と言う。建部家は天1573年織田信長との戦いに敗れ一家離散、七郎右衛門は近江愛知郡柳川(現滋賀県彦根市柳川町)に暮らし、武士を捨てたとされる。七郎右衛門は1588年野菜類の種子の行商で松前(現北海道松前郡松前町)に渡り、その後度々近江と松前を往復した。1590年には、松前の蠣崎慶広に豊臣秀吉との謁見を勧めたと伝えられる。
なお、建部家過去帳によると建部元重は1691年に数え77歳で死去、元重の父重武は1635年死去とされている。過去帳に従うならば前項記載事項(蠣崎慶広への秀吉謁見の話等)や、七郎右衛門が同郷の田付新助の相談に乗った結果、新助が1596年 - 1615年に津軽の鰺ヶ沢、渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に出店したとの話もありえないことになる[1]。
但し、七郎右衛門が江戸時代初期に松前進出を果たし巨利を得、若狭小浜や越前敦賀で大船を建造し、主に米・味噌や生活用品を松前に運び、松前からは材木を上方に運んだ(北前船)とされ、屋号も『材木屋』と称していたことは事実である。建部氏の氏神である大宮神社(彦根市柳川町)には、七郎右衛門の持ち船(韋駄天丸・自在丸)が描かれた『松前渡海絵馬』が奉納されている。
●初代 藤野 喜兵衛
1770年 - 1828年江戸時代後期、高田屋嘉兵衛とほぼ同時期に蝦夷地に進出した近江商人・藤野喜兵衛家の初代。屋号は柏屋。
初代藤野喜兵衛は1770年近江国愛知郡(後の日枝村、現滋賀県犬上郡豊郷町)の商人4代目藤野四郎兵衛の次男として生まれ、諱は喜昌と言う。1781年初めて蝦夷地に渡り、福山(現北海道松前町字福山)で義兄宮川清右衛門(屋号萬屋)の店に丁稚奉公し、1800年独立して松前城下の松ヶ崎に店を開き、屋号を『柏屋』・商標を『又の字の下に十(通称又十)』とし、物産販売・海運業を始めた。
順調に家業は伸び船7隻を保有する迄になり、1806年に余市場所を請け負い場所請負商人となった。1808年には宗谷・枝幸・常呂・網走・斜里場所などの漁場を、また1821年には国後場所も請け負った。柏屋は数年で松前有数の豪商へと成長し、オホーツク海沿岸漁場の請負は1867年迄続いた。
蝦夷地は1799年に東蝦夷地、1807年には西蝦夷地が天領となり松前奉行が置かれた(松前藩は陸奥国伊達郡梁川に移封)。藤野家の蝦夷進出はまさに蝦夷地天領の時期に行われた。1821年蝦夷地の大半が松前藩へ返却される際は、藤野家船『常昌丸』が松前藩御用船として買い取られ、1822年藩主(松前章広)一行の松前復帰に用いられ、藤野喜兵衛は藩侯より名字帯刀を許され七人扶持勝手向き御用となった。その後、1823年には利尻・礼文場所も請け負った。
初代喜兵衛は文政9年兄である第5代藤野四郎兵衛が後継ぎなく死去したため、同年6代目として本家藤野四郎兵衛家を継いだ。1828年初代喜兵衛(6代四郎兵衛)が亡くなると長男が7代目藤野四郎兵衛となり、長女の婿養子百次郎が2代目藤野喜兵衛となった。なお、一部資料では初代喜兵衛が本家を継いだことから、喜兵衛を初代四郎兵衛、長男を二代目四郎兵衛としている。
●岡田 弥三右衛門
1568年 - 1654年江戸時代初期の商人で、蝦夷地に進出した近江商人・岡田八十次家の初代とされる。岡田家の当主は代々八十次(やそじ)と称し(八十治と記される資料もある)、本項弥三右衛門を初代の八十次とする記述もある(国史大辞典)が、初代の名乗りは弥三右衛門が正しく、一般に呼びならわされている八十次を称したのは7代目以後とされている。
近江国では、六角氏衰退・浅井氏滅亡の後、多くの両氏一族・遺臣が帰農、又は商人へと転じていったが、岡田家も元武士の家柄とされる。岡田弥三右衛門は1568年の頃、蒲生郡加茂村(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。
若い頃、安土城下で商売を営んでいたが、本能寺の変後安土城も落城したことから1586年豊臣秀次八幡城築城を契機に八幡城下爲心町に新たに店を設け、その後八幡城の廃城後に町が衰退すると、1596年 - 1615年に呉服太物を抱えて奥州に行商を始め、八戸を拠点とし、大いに蓄財をなした。
更に松前藩家臣工藤平右衛門の助力を受けて松前(現北海道松前町)に進出し、蝦夷地に呉服・太物・荒物を販売する支店を大松前に開き、屋号を「恵比須屋」とした。後に松前藩の信任を受けて、蝦夷地の千石船を用い海産物を日本海を経由(北前船)して出羽から北陸・上方へと運んだり、蝦夷地における漁場経営や物資の調達を請け負ったりして御用商人として活躍した。弥三右衛門は岡田家の蝦夷地での基盤を作り上げ、1651年に郷里近江八幡で死去した。
子孫も引き続き、松前の支店を拠点として蝦夷地における近江商人の中心的存在として活動、両浜町人の代表的商家の一つ。岡田家第10代の時には小樽内・古平・礼文・利尻など23ケ所で場所請負を行った。1871年に小樽(旧・小樽内)に支店を移して、12代目・13代目が北海道の開発事業に参加して小樽の町の基盤整備を行ったり、北海道で炭礦や農場を経営したり、更には九州地方でも事業展開を見せたが、当時としては時代よりも進み過ぎた事業も多く経営が苦しくなり、1901年に13代で破産を余儀なくされた。







