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『わが母(ママン) Ma mère 』はクリストフ・オノレ監督により2004年制作・公開された仏・墺・葡映画。原作はジョルジュ・バタイユ。この時代特有の孤独と愛とオブスキュア(暗がり)の精神。拙訳を....

『ママン』(抄)

(...)

わたしたちはグラスを取った。
わたしは時計を見つめた。

──針は一瞬たりとも止まらないね

そう私は云った。

──とっても とっても残念だ

そして、気づいていた。

私も、母も。

こんなあいまいさの中にあれば
あらゆるものは急速に崩れ落ち、
指の間から零れ落ちて行くのだ。

母はさらにシャンパンを入れた。

──あと 一本だけよ

彼女は云った。

──うん あと 一本だけだ 
  たぶんね でも

昼食が終わると、
ソファでまた抱き締め合った。

──レアとの恋に乾杯するわ

母が云った。

──でもぼくはレアが怖い

そうわたしは答えた。

──彼女がいなかったら
  私たちはもう終わりよ

  彼女が狂っているおかげで
  わたしも少しは
  理性を保っていられる
 
  あなたも彼女から得られる“良さ”
  を知るでしょう

──今は二時ね
  私は七時には家にいるわ
  三人で夕食に出かけて
  それから
  あなたと彼女は
  二人で夜を過ごすことになる

Georges Bataille
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general

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よく どこが痛い ここが悪いと
自慢げに話す人がいますが
私はこの年になるまで
頭痛がしたこともないし
肩がこることもない

そういうことをまず思わないの
そして人にいわない

その代わりいい話は
会う人ごとに自慢するの…

私の父親っていうのは
もうすごい人でしてね

雪の降る日に 学校へ行くのに
裸足で行かされたのよ

草履は腐るけども足は腐らない
だから裸足で行けって

そして学校まで裸足で行ったの

それでね
ああ…ほんとに足はくさらないなぁ
と思って

そういうのは人の目から見たら
悲惨に見えたかもしれませんが

私はそういう境遇であっただけに
不幸に対しては鈍感になり
幸福に対しては
感じやすくなったんでしょうね

たこら私は幸福の感じ方が
案外 上手なのだと思います
つまり幸福を知る才能があるのね

そういう父親に育てられたから
不幸に対して
へこまない子供になったんです

だから もういっぺん
子供の頃があるとしたら
またあの父親に
育てられたいと思っています

甘やかしすような
親に育てられたくないですね

あのね
これは私の特技なんですけど
私は"困ったな"と思うような
状態になったときに逃げずに
まるで待ち構えていたように
瞬間にさっとその中へ飛び込むの

そうやって平気で入り込むと
なんてことはないのね

だけど みんな逃げるからね

やりきれない状態というのは
その当人がやりきれない分量が
多ければ多いほど
やりきれない形になるんです

平気でいれば
ある程度 平気になれる
これくらい平気になれたと
自分で自分に自慢するのが
暮らし方のコツですね

#宇野千代
#致知
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ナトル

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「夢」は実現可能性が高い身の丈にあったものが良いか?叶える難易度は高くとも心の声をしっかり聞くべきか?「夢」は実現可能性が高い身の丈にあったものが良いか?叶える難易度は高くとも心の声をしっかり聞くべきか?

回答数 6>>

まず自分のことをよく知ることが一番ではないのでしょうか 自分のことを標準として考えると それに似合った 身の丈の高さにチャレンジできるし それより ワンランク上の目標にもいつか 到達できるものです

自分のことをよく知ること 長期であれ 継続的にチャレンジすること小さなことでも経験を積み重ねることそういうのが大事だと思います
哲学哲学
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そら

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こどもが
いないと
空気の抜けた風船みたい
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なお

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裸だと知ったその時、何が変わったのか?創世記が問いかける「当たり前」の本当の意味

こんにちは、石川尚寛です。

先日、ふと面白いことに気がつきました。小さな子どもが公園で遊んでいて、服のボタンを全部外して「風が気持ちいい!」と嬉しそうに叫んでいたんです。その子のお母さんは慌てて着せ直していましたが、僕はその一瞬、なんて自然で自由なんだろうと感じました。

私たち大人は、人前で服を脱いではいけない、ということを「当たり前」として生きています。でも、なぜそれが当たり前なのか、深く考えたことはあまりありません。この小さな疑問が、ふと創世記のあの有名な場面を思い出させてくれたんです。禁断の実を食べたアダムとイヴが、なぜ突然「自分たちが裸であること」に気づいたのか、という問いです。

創世記3章7節にこう書かれています。
「すると、二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

ここで使われているヘブライ語の「目が開かれる」という表現は、単に物理的に見えるようになるという意味ではありません。新しい認識、新しい理解が与えられる、内側の目が覚めるという深い意味を持っているんです。

僕がこの箇所を読んで考えさせられたのは、彼らが裸であることに気づいた「順番」でした。まず目が開かれ、それから裸であることを知り、そして最後に腰のおおいを作った。この流れがとても重要に思えたんです。

もし彼らが単に「裸だから恥ずかしい」と感じただけなら、なぜ神の形に造られた体を恥じなければならなかったのでしょうか? 僕はこの問いと長く向き合ってきました。

そして気づいたのは、ここでの「裸を知る」という経験は、おそらくそれまであった「あるがままの関係性」が変わってしまったことの表れではないか、ということです。神との間に、そしてお互いの間に、距離が生まれてしまった。それまで透明だった信頼の関係に、何かが見えない膜が張られてしまった。その変化を最初に感じ取ったのが、「裸であること」への意識だったのではないでしょうか。

私たちが服を着るのが当たり前の現代社会で、この物語が伝えようとしているのは、もしかしたら「目隠し」の本当の意味なのかもしれません。服は寒さから守るためだけでなく、私たちがお互いに、そして自分自身に対してさえも設けてしまった「距離」を象徴的に表しているように思えます。

神の形を恥じるということは、神とのつながりの中で生きることから、自分だけで立たなければならない孤独に目覚めてしまったことの表れではないでしょうか。そしてその孤独感が、私たちをして様々な「覆い」を求めて奔走させるのではないか、と僕は感じます。

でも、この物語には希望があると信じています。なぜなら、神は彼らを裸のまま放っておかれなかったからです。創世記3章21節には、神ご自身が彼らのために皮の衣を作って着せてくださった、と記されています。私たちがどんなに自分で葉っぱの腰巻きを作ろうとも、最後には神の備えが必要なのだということに、この物語は気づかせてくれるような気がします。

僕自身、この創世記のマンガを描きながら、毎日新しい発見があります。聖書の言葉が、こんなにも現代の私たちの日常に深く響いてくることに、驚きと感謝を覚えています。

これからも、一節一節を丁寧に読み解きながら、マンガという形で分かち合っていきたいと思っています。気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ #創世記の深み #聖書と日常
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喰斗

喰斗

風船とか、暖簾的なもんとか、
風に動かされるもの大っ嫌い
そもそも風が無理 普通に恐怖症レベルで
動悸エグなる 今強風エグくて死
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