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とりとめのない話し(その55)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その15)

近江商人「小野組」から派生した「古河財閥」は1946年に財閥解体となったが、1954年に古河山水会として、グループを再形成している。古河市兵衛は渋沢栄一と関係が深く、グループへの円滑な融資等を目的として、渋沢栄一創立の第一国立銀行(現・みずほ銀行)が合流しており、また渋沢倉庫なども合流している。

●古河財閥
古河市兵衛が設立した財閥。十五大財閥の1つ。
古河財閥の源流は、1875年(明治8年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。
古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(後の大日日本電線、現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧・古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。

●古河財閥の確立
 旧・古河合名会社の3社分立に先立ち1917年(大正6年)6月に、古河の諸事業の拡大に伴い増大する資金需要の解決を図るために、東京古河銀行(1921年(大正10年)に古河銀行と改称、現・みずほ銀行)が設立された。このことは、企業集団(古河財閥)が拡大発展するためには、古河家創業後の資本の蓄積と鉱山からの収益のみでは不十分で、企業集団以外の一般公衆資本の調達が必要なことを如実に示している。
古河商事の設立は、第一次世界大戦の軍事特需による古河の諸事業の発展と取扱商品の多様化に伴い、古河合名会社の営業部という組織では対処できず、営業部門を分離・独立させたことによる。古河商事設立後、従来からの銅・電線・石炭に、鉄・鉛・亜鉛・錫が加わり、更に雑貨類にまで拡大された。この雑貨類のうち、大連出張所で取引が開始された大豆・豆粕の扱いに将来の問題の種が宿されていた。
3社分立により設立された合名会社古河鉱業会社から鉱山・金属加工部門を引き継いだ古河鉱業株式会社(現・古河機械金属)が設立された。古河鉱業株式会社が設立された後の合名会社古河鉱業会社は、1929年(昭和4年)に合名会社古河林業部を経て、現在の古河林業につながっている。
これら直系の古河鉱業・古河銀行・古河商事、横浜電線製造などの傍系会社を全て株式会社化し、持株会社である古河合名会社は、株式会社には転換せず合名会社として、傘下の株式会社化した子会社群を持株により統括支配する財閥体制が確立した。また、今日の古河グループにおいても、グループ各社同士が互いに株式を相互保有している。その中心的な存在が、戦後の財閥解体以降に古河グループの持株会社的機能(戦前の古河合名会社の役割)を引き継いだ古河機械金属である。

●古河商事の破綻
第一次世界大戦期の軍事特需の中で、古河商事は従来の取扱品を拡大し、朝鮮・台湾はもとより欧米まで販売網を展開していたが、1920年(大正9年)の反動恐慌に見舞われ、商品価格の下落により大きな損害を被った。その上、大連出張所での満洲特産品(大豆・豆粕・粟・高粱など)に絡む投機的な取引により多大な損失を被り、古河商事のみならず、古河銀行、ひいては古河財閥全体を大きく揺るがすことになった(いわゆる大連事件)。日本電線、日本電線製造(のち大日電線)の古河財閥からの離脱もその一例である。
また、この大連事件で、古河の神戸船舶事務所が大幅な縮小を迫られたことは、後の古河財閥に大きな影響を与えた。というのは、第一次世界大戦後の海運ブームに際し、古河合名会社が山下汽船から譲り受けた3000トンの貨物船2隻、アメリカから輸入した8000トンの新造貨物船、更に新造船3825トン貨物船を合わせた社船隻と、そのほか傭船十数隻を擁し、主に古河関係の輸出入品を取り扱い、帰り荷には他社の貨物も積載して、アジア地域のみでなくスエズ・欧米の航路においても活躍していたが、大連事件と不況の煽りを受けて社船を転売、事務所を縮小した。
古河商事の蹉跌がなければ、古河財閥は鉱業・製造業・流通業(商社・海運)・金融業の4分野の全てに展開した総合財閥になれたものと考えられる。古河商事そのものは、1921年(大正10年)にわずか4年間の経営活動の後、古河鉱業(現・古河機械金属)に吸収合併され消滅した。

●古河銀行の破綻
東京古河銀行(1922年(大正11年)に古河銀行と改称、現・みずほFG)は1917年(大正6年)に設立され、第一次世界大戦特需と古河財閥傘下企業の好調な発展に支えられ、預金・貸出ともに急成長したが、その時に発生したのが古河商事の大連事件であり、また、深刻な第一次世界大戦後の反動恐慌であった。
大連事件の一時的な善後処理は乗り切ったが、その後、預金の大幅減少が続き、これも第一銀行(のち第一勧業銀行、現・みずほFG)の援助を受けながら凌いだ。そして、恐慌沈静後は預金が増勢に転じ、関東大震災の発生後も順調に回復した。
しかし、その後、関東大震災に伴う震災手形処理問題の難航から、鈴木商店の破綻に代表される全国の銀行を巻き込んだ1927年(昭和2年)の金融恐慌が発生し、引き続いて1929年(昭和4年)の世界恐慌とそれに基づく翌年からの昭和恐慌に直面した。
そして、銀行業務と支店の移管について第一銀行と東京貯蓄銀行(のち協和銀行、現・りそなHD)との合意を得て、1931年(昭和6年)に大蔵大臣に解散認可願を提出し、認可された。

●第一銀行(現・みずほFG)と古河グループ
古河グループ(古河三水会、旧・古河財閥)は、銀行系列としては第一銀行(のち第一勧業銀行、現・みずほFG)系列に所属する。古河グループと第一銀行の関係の歴史を振り返ると、以下のように要約できる。
第一銀行の前身である第一国立銀行(小野組と三井組との共同出資で設立された)は1873年(明治6年)に日本初の銀行として創立され、1875年(明治8年)に渋沢栄一が頭取に就任し、官金出納のほか一般銀行業務を取り扱った。1874年(明治7年)、小野組の破綻により第一国立銀行は経営危機に直面したが、前述のように小野組で商事部門を担当していた古河市兵衛が進んで抵当物件を提供するなどの誠実な態度によって、その危機を回避することができた。それ以降、渋沢栄一は古河市兵衛との強い信頼関係を保ち、1875年(明治8年)に市兵衛がほとんど無一文で鉱山事業に取り組む際には、第一国立銀行から資金援助を惜しまず、更に足尾銅山の事業の経営に関し、自ら参加するまでになった。
また、第一銀行は、1896年(明治29年)から始まる足尾銅山の鉱毒予防工事に際して、古河鉱業(現・古河機械金属)に巨額の工事費用を提供した。更に、1917年(大正6年)創立の古河銀行が、古河商事の破綻や金融恐慌の影響を受けて苦境にあった折に、同行業務と支店・従業員を引き継ぐなどの支援協力を行なった。このような緊密な関係はその後も(第二次世界大戦の敗戦に伴う財閥解体後も)一貫し、古河グループ各社と第一銀行は幾多の試練を相互に援助しながら乗り越えて、互恵的パートナーシップ関係を維持し、今日に至っている。第一銀行は1971年(昭和46年)に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、2002年(平成14年)には第一勧業銀行・日本興業銀行・富士銀行が合併しみずほFGが設立され、その傘下のみずほコーポレート銀行(後のみずほ銀行)となったが、古河三水会の理事会社として古河グループ各社の事業に深い理解と協力を提供している。

●財閥解体と古河三水会の発足
第二次世界大戦の敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大柱は、農地改革、労働改革、そして財閥解体であった。1945年(昭和20年)に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社(制限会社)となり、1946年(昭和21年)に発足した持株会社整理委員会によって古河財閥の解体作業が開始された。
GHQによる財閥の解体は、「持株会社の解体」「財閥家族の企業支配力の排除」「株式所有の分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社の解体に関しては、古河鉱業と古河電気工業が持株会社の指定を受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく、持株会社整理委員会に有価証券を譲渡し、子会社との資本関係を解消した上で、企業再建整備法による再建の道を進み、1950年(昭和25年)に古河鉱業と古河電気工業は共に制限会社の指定を解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画の認可条件を満たした1949年(昭和24年)に制限会社の指定を解除された。
財閥家族の企業支配力の排除については、古河従純(古河4代目当主、元・古河鉱業社長)と中川末吉(元・古河電気工業社長)が指定され、両者の所有有価証券は持株会社整理委員会に譲渡された。また、被指定者は会社役員への就任の制限措置がとられた。
株式所有の分散化については、持株会社整理委員会が譲り受けた株式を1947年(昭和22年)に設置された証券処理調整協議会を通じて公衆(会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。
古河財閥は、上記の財閥解体処分により、集中排除・企業再建整備の試練を経て、それぞれ独立の企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥の一員として成長・発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的・人的関係が断たれただけで崩れることはなかった。特に古河財閥の場合は、非鉄金属・電機エレクトロニクス・化学などの事業会社が中心となって原料・製品面での関連が強く、それぞれが完全独立会社となってからも協力関係が維持された。その端的な例として、1950年(昭和25年)の日本ゼオンの創立に当たって、古河電気工業・横浜ゴム・日本軽金属の旧・古河財閥(戦後は古河グループと称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。
古河グループの再結集の梃子の役割を果たしたのは、第一銀行(現・みずほ銀行)による融資系列の形成であった。その基本的機能は、株式の相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割を果たしているのは古河財閥の源流企業・古河機械金属である)。1954年(昭和29年)に、古河グループに所属する会員相互の親睦・情報交換・協力・共同事業を行なう任意団体として、古河三水会が設立された。

●古河三水会
理事会社は10社で、構成会員は理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。
理事会社10社は、古河機械金属・古河電気工業・富士電機・富士通・横浜ゴム・ADEKA・日本軽金属・日本ゼオン・朝日生命保険・みずほコーポレート銀行で、特に古河機金・古河電工・富士電機・富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日に古河グループの社長会が開催されることにちなむ。グループ会社数は550社、グループ従業員数は約27万人、グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局は東京・丸の内の丸の内仲通りビル。
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ちょむすけ

ちょむすけ

皆さまおはようございます。今日は一刻者の日ですね。

頑固なまでに芋の美味さにこだわり、芋本来の華やかな香りと上品ですっきりとした味わいが特徴の全量芋焼酎、一刻者(いっこもん)が2001(平成13)年9月4日に販売開始されたことにちなんで、同製品の製造・販売を行っている宝酒造株式会社が記念日を制定。

ちなみに、一刻者は主に九州地方の南部で使われている話し言葉で「頑固者」を意味する言葉なんだとか。

それでは今日も一日だらだら頑張りましょう
( ・∇・)ノ
#おはようございます
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マミ

マミ

カクレシアワセの日
ティッシュペーパー(ティシューペーパー)をはじめとした紙製品関連事業を行っている日本製紙クレシア株式会社が展開しているフォトコンテスト

カメラ
カクレシアワセ

は、


日々の暮らしの中で当たり前と思っている何気ない幸せに気づく

ことがテーマとなっているこから【カクレ(9)シ(4)アワセ】の語呂合わせにちなんで9月4日に記念日を制定しております。
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ナビジ

ナビジ

顧客満足度の向上:製品やサービスを提供するプロセスを最適化することで、顧客満足度を向上させることができます。
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GRAVITY9
✨🪷れん🦉れん🪷✨

✨🪷れん🦉れん🪷✨

【スキンケアの常識】

本質思考アロマブレンドオイルの会社の社長👩‍🏫

肌のプロから教わったこと


【基本的に肌には何もつけなくて良い】


何か肌をケアしないと!と
心配にさせられてるだけで
そうしないと買わないから
そういう教育を大々的にしているだけで

社長曰く、

自社の製品すら肌には必要ないらしい

不必要なものを肌に使い続けてきて破壊してきた肌を回復させるためにアロマブレンドオイルが要るだけであって本来なら肌には何もつけなくて良く自社製品すら必要ないらしい。


そんな社長がおすすめするものは

シャボン玉石鹸社の石鹸シリーズ

洗顔はシャボン玉石鹸社の石鹸シリーズのものなら○

市販の洗顔や化粧水や美容液や乳液には
合成界面活性剤やプラスチックや添加物が入っているので安心できない。

そのためシャボン玉石鹸社製品は
安心して使用できるのが理由

角栓や🍓いちご鼻👃には

オリーブオイルや大白ごま油を顔に塗ってホットタオルで1、2分温めると肌の汚れは浮き出るそれでもダメならクレンジングを使用する程度で○

なのでメイクするなら必要だが、
それ以外ならクレンジングも必要ないらしい

化粧水はもし使うとしたら塩スプレーのみで○

シャボン玉石鹸同様塩スプレーには余計なものが入ってないので○とのこと

塩スプレーの創り方

500mlの水に対し塩5g小さじ1杯の分量で創り、
100均スプレーボトルで○

日焼け止めは肌に負担❌つけなくて良いらしい

シミやくすみは太陽より食事らしい

ビタミンC E を取ること
キウイ🥝レモン🍋🥦

砂糖はくすみの原因に取りすぎは❌
肌を酸化させるものは❌
植物油やショートニングやマーガリン❌

#美肌は食事から

小麦 乳製品 植物油脂 砂糖

これらは食事から避けること

クレンジングは #メイク するなら○
洗顔はシャボン玉石鹸で○安心だから
化粧水は塩スプレーのみで○安心だから
美容液要らない それより食事フルーツ野菜
乳液要らない
日焼け止め要らない肌に負担 それより食事

以上 眼から鱗の新常識でした

乾燥肌や敏感肌目的によっていろいろ使うかもしれませんが

基本的に塩スプレーのみでオッケーらしいです


基本的に肌には何もつけなくて良い

髪もそうだね

本質思考なあなたには届く内容だと思います


#美容
#スキンケア


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