そして、彼女は静かに鍵盤に指を置いた。流れるような音が、静寂の中にしみ込んでいく。曲は──『サーカスポニーの脱走』。彼女の瞳がかすかに細められる。何十年も前のあの日、夕暮れの空の下、小さなポニーが必死に駆けていた姿を思い出す。生まれて初めて知った胸のざわめき。そしてその後の、自らの『脱走』の記憶を──。音は次第に力強さを増し、跳ねるように、あるいは駆けるように、ホールの隅々まで響き渡る。まるであのポニーが、再び柵を飛び越え、どこまでも自由に駆けていくかのように。彼女の指は迷わない。最後の一音を響かせるその瞬間まで、彼女はただ、音に身をゆだねていた。静寂。やがて、深く息をつくと、彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、観客席を見渡した。かつての自分と同じように、何かを求め、何かを探している人々の顔が、そこにはあった。彼女はそっと目を閉じる。──三度目の『脱走』は、まだ続いている。(終)──茶藤愛『サーカスポニーの脱走』