ゴトー(と🐱)
大人にならなきゃなーと思ってる大人。
🐱の名前はマルです(13歳)
ゴトー(と🐱)
例として、「男性の育児休暇」を考えてみましょう。かつては制度自体が存在せず、「夫も妻とともに育児を担うべきだ」という社会的な主張の高まりによって、ようやく制度化が進みました。形式上は「選択できる」状態が生まれたわけです。
ところが制度開始当初、実際の職場の空気は決して自由なものではありませんでした。育児休暇を取得した男性に対しては、「男のくせにそんなことで休むのか」「仕事への責任感が足りないんじゃないか」「出世はもう諦めたのか」「周りに迷惑をかけるな」といった視線や言葉が、現実に存在していました。制度はあっても、それを選ぶことには強い心理的コストが伴っていたのです。「選択できるにもかかわらず」、実際には選びにくい状況でした。
やがて時代が進み、状況は徐々に変化していきました。育児休暇の取得は次第に称賛されるものとなり、さらには「取って当たり前」という社会的な空気へと転じていきます。ところがここで、今度は別の圧力が生まれます。「私は仕事を優先したいから育児休暇を取らない」と言いにくくなっていくのです。育児休暇を取らないことが、「家庭を大切にしていない」「時代遅れだ」「奥さんがかわいそうだ」「会社の方針に反するのか」「出世は諦めたのか」といった新たな悪評につながる場面も見られます。これもまた、「選択できるにもかかわらず」生じている圧力です。
このように、「選択できる」という状態は、私たちが思うほど単純な自由を意味しません。制度としての自由が与えられていても、そこには必ず「空気」や「評価」や「同調圧力」がまとわりつきます。形式上は自由であっても、現実には「選ばされている」ことも少なくないのです。
「選択できるという状況」は、しばしば「必ずしも自由に選べているわけではない」という、一見矛盾した状態を生み出します。前者が制度や理念のレベルの話であり、後者が現実の社会の振る舞いであるとき、このねじれは必ず生じます。私たちはそのことを、過去の歴史から、すでに何度も学んできたはずです。
ゴトー(と🐱)
日本将棋連盟では今年4月、タイトル戦に臨む女流棋士が妊娠した場合、対局の日程が出産予定日から数えて「産前6週から産後8週まで」の期間と1日でも重なれば、日程変更には応じず、その女流棋士はタイトル戦に出場できない、という規定を施行しています。福間氏の要望は、この規定が「棋士としてのキャリア構築を妨げる過剰な介入である」と感じている、という訴えだと要約できます。
確かに、将棋界に限らず一般的に考えれば、こうした大会や仕事への参加・不参加の判断は、医師の判断と本人の意思に委ねられるのが通常でしょう。主催者側が、妊娠・出産を理由に一律で参加を禁止するような規定を設ける例は、あまり多くありません。にもかかわらず、日本将棋連盟は「あえて」この規定を設けました。その意図はどこにあったのでしょうか。私はまず、そこを考えてみることが出発点であると思い、そこから調べてみました。
そして報道などを手がかりに背景を見ていくと、この規定が生まれた土壌として、女流棋士を取り巻く現在の生活実態の特殊さが浮かび上がってきました。現在の女流棋士の多くは、収入が決して安定しているとは言えず、スポンサー、タイトル、防衛、評価といった外部的な圧力が極めて強い構造の中に置かれており、そのため本来であれば休むべき状況であっても、無理をして対局に臨んでしまいかねない、という危うさをはらんだ現実があるようです。日本将棋連盟がこの規定を設けたのは、そうした構造の中で女流棋士が「自分の意思だけでは休めない」状況に追い込まれることを防ぐための、安全対策としての“盾”的な配慮であった、という見方も成り立つのではないか、と考えました。実際、この規定によって守られる女流棋士が少なからず存在することも、想像に難くありません。
一方で、福間氏のように、それは自らのキャリア形成に対する過剰な干渉だと感じる人が出てくるのも、また自然なことだと思います。では、各棋士が自由に選択できるようにすればよいのでしょうか。いいえ、それでは問題は解決しません。「出場できるなら、出るべきだ」という新たな圧力が必ず生まれます。それは結局、別の形で無理を強いる構造を温存することになり、盾としての意味を失ってしまいます。それでは意味がありません。
この問題は、「個人の自由」と「構造的な弱さから守るための制度的な保護」を、どこでどうバランスさせるのか、という非常に難しい問いを私たちに突きつけています。どちらかを完全に否定すれば、必ず誰かが傷つく。そうした性質の問題なのだと思います。このジレンマは、どうすれば解決できるのか。本当に、簡単には答えの出ない問題だと感じました。
ゴトー(と🐱)
まあわからんでもない。他人のは普通に嫌だけど、自分のは独特の愛着があるというか。
ちなみに私からしたらこいつの足のニオイは…

ゴトー(と🐱)
百歩譲って看病する側が「遠慮せず治すことだけに専念しろ」という配慮で言うぶんにはまだしもな、無理に出社してウイルスを撒き散らしてる奴が言うセリフじゃないんだわ。
とっとと帰れ!
ゴトー(と🐱)
初めての街で Traditional version
ゴトー(と🐱)
そのワークショップを主宰しているのは、私の友人ヴィクトルだ。卓越したセンスを持つ男で、私は運営として、彼と参加者たちのやり取りを一歩引いた場所から見ていた。
ある時、その高度なワークショップに、なぜかエミリアが参加することになった。内容は明らかに彼女には難しすぎる。それでもヴィクトルは承知の上で受け入れ、エミリアも必死に食らいついていた。参加者は六人。性別も人種もばらばらで、それぞれが自分のプランを作り、互いにそれを見せ合いながら高め合う形式だった。
中間プレゼンの日、参加者の中でもとりわけ優秀なリサが発表を行った。自由に意見を差し挟める形式の中で、意外にもエミリアの発言が高く評価された。
その流れでヴィクトルは戯れに、「最後のキャッチコピーをエミリアに読んでもらおう」と言い出した。エミリアは恐縮して辞退しようとしたが、押し切られ、緊張した面持ちで読み上げた。しかし結果はやはり拙いものとなり、勉強不足がはっきりと滲み出ていた。
それでもヴィクトルは満足そうに頷いた。
「完璧な読みよりも、少し違和感があった方が人は注目する。しかもあれは、素人の方言のような分かりやすいズレじゃない。もっと不思議な歪みだった。それがいい」
私たちはその理屈に妙な説得力を感じ、それぞれが「違和感」というものを掘り下げ始めた。そこに、目立った摩擦は生まれなかった。むしろ、異様なほど円滑だった。
しかし、この私たちの動きは、すでにアウレリウス教皇猊下の目にも留まっていたらしい。
ある日、ヴィクトルと話していると、はるか遠くを通り過ぎる猊下の姿が見えた。豆粒ほどの大きさで、ヴィクトルは気づいていない。
しばらくして、ちょうど会話が途切れかけたその時、私はふと、その小さな顔がこちらを向いたような気がした。私は意識的にその予感を振り払い、デスクに戻り仕事に没頭しようとした。だが、猊下がこちらへ向かって来ている――その気配だけは、どうしても消えなかった。
やがて猊下は、ヴィクトルのロッカーの前に立った。ロッカーを開け、シャツを取り出し、何かをしている。調べているのか、手を加えているのか、私には分からない。ただ、私の胸の奥に沈殿する緊張だけが、刻々と濃くなっていった。
猊下がロッカーを元に戻した直後、ヴィクトルが戻ってきた。猊下は何食わぬ穏やかな顔で彼を見ている。ヴィクトルは予想外の遭遇に息を呑み、深く頭を下げた。まだ誰も、何も口にしない。
先に声を出したのは、私だった。
「……猊下」
それ以上の言葉が続かなかった。何か言わなければならない。だが、どう言えばよいのか分からない。私が言葉に詰まった、その瞬間だった。
猊下は、静かに私の名を呼んだ。
「ゴトー、君の今の苦しみを解放してあげよう。彼がゲイであることは、すでに知っている。私がそれを知らずに彼と話をすることが、教団政治の上でスキャンダルの火種になりかねないと、君は恐れているね。でも、問題はない。
そして、たった今、私が彼のロッカーを勝手に開けたことも、これから彼自身に話すつもりだ。君の奥さんのことも話す。君が今考えていたことは、何も心配はいらないんだ」
私は一言も返せなかった。ただ、猊下の慧眼に、私は恐れ入るしかなかった。
その先に何が告げられるのか。
この場は、どうなるのか――。
と、言うところで、目を覚ました。なんだこれ。おはようございます[冷や汗]
ゴトー(と🐱)
もし人類が生き残っていれば、
(manと言っても、もちろん女性たちもだ)
彼らはきっと、こんな未来を知るだろう――
3535年には、
もう真実を語る必要はなく、
もう嘘をつく必要もない。
今日考え、行い、言うことは、
今日飲む錠剤にすべて入っている。
4545年には、
もう歯は要らず、
もう目も要らない。
何も噛むものはないし、
誰も他人を見る必要もない。
5555年には、
もう腕は力なく身体の横に垂れ、
もう脚もやることがない。
そのすべてを機械が、
代わりにやってくれる。
6565年には、
もう夫は要らず、
もう妻も要らない。
子供は自分で選ぶ。
試験管の底から。
――おお……。
7500年頃、
もし神がやって来たなら、
(この頃には来るはずだ)
神は周りを見回してこう言うだろう、
「そろそろ審判の日だな」と。
8500年頃、
神はその全能の頭を振り、
そして「人間にしては、よくやったな」と言うかもしれないし、
全てを破壊してやり直そうとするかもしれない。
――おお……。
9595年には、
(正直ちょっと、
人類がまだ生き残っているかは分からないが、)
人類は地球からすべてを奪い、
そして何ひとつ地球に返していないだろう。
さあ今や一万年が過ぎた。
人類は自らの無知について、
幾億万の涙を流し続けてきた。
今や人類の支配は終焉を迎える。
それでも永遠の夜は続き、
星は瞬き続けるだろう。
――これは遥か遠い未来の話のようで、
あるいはもう既に始まっている話のようで……。
2525年、
もし人類が……
西暦2525年
ゴトー(と🐱)
数の概念を理解し、記憶し、規則に従って操作することは、常に人間に大きな知的負担を強いる営みであり続けました。
その負担を軽減するために、さまざまな計算補助具が生み出されてきました。
最も原始的なものは自らの指との対応であり、その後、算木や算盤といった、数を物理的に操作する計算器具が発明されました。さらに製紙技術の普及とともに、紙とペンによる筆算が一般化していくことになります。
しかし、これらはいずれも人の手によって操作されるものであり、あくまで人間の計算活動を「補助する」存在にとどまっていました。計算という知的行為そのものは、最後まで人が担っていたのです。
やがて、機械式計算機が登場します。
これは単純なインプット装置を備え、人が計算の規則をその都度意識せずとも、機械的な仕組みによって自動的に結果がアウトプットされる装置でした。
人はもはや「計算の途中」を考える必要がなくなり、入力と出力だけを扱う存在へと役割が変化しました。
しかし、機械式計算機は精密機械としての制約を強く受け、構造が複雑になるほど高価で壊れやすくなり、広範な普及には至りませんでした。
それでも、レジスターのように加算・合計といった限られた用途に特化した分野では実用化され、一定の成果を収めました。
とはいえ、それが機械式計算機の実用上の限界であったとも言えるでしょう。
次に登場したのが電子計算機です。
厳密に言えば、電子そのものの性質を直接用いているというよりも、電気のオン・オフを論理の基盤とした「電気的計算機」と呼ぶほうが本質に近い存在です。
この方式は非常に広く受け入れられ、進化と普及は爆発的に進みました。現在では、科学、産業、通信、娯楽など、あらゆる分野に電子計算機が浸透しています。
しかし、その進化の推進力であったムーアの法則は、物理的・経済的な制約によって頭打ちが見え始めています。
トランジスタの微細化による「小さく、速く」という進化は、もはやかつてのような指数関数的成長を維持できず、進化の減速が現実のものとなりつつあります。
では、電子計算機の次に来る計算機の方式は考えられているのでしょうか。
実際、現在すでにその候補となる方式が研究されています。大きく分けると、光方式、ニューロモルフィック方式、量子方式の三つの方向です。
光方式とは、計算の論理構造そのものは電気式計算機とほぼ同じまま、信号の伝達や演算の媒体を電子から光へと置き換えるものです。
光は電子よりも高速で、かつエネルギー損失が小さいため、純粋に「速く・効率よく」計算するための物理的な強化策と位置づけられます。これは電気式計算機の延長線上にある、いわば腕力的な進化です。
ニューロモルフィック方式は、計算機の構造そのものを人が厳密に設計するのではなく、脳の神経回路を模倣した構造を持たせ、計算機自身が学習によって最適な計算手順や構造を獲得していく方式です。
これは「どのように計算するか」という手続きを人がすべて与える従来方式とは異なり、計算機が自ら効率的なアプローチを見いだす、一段階メタな構造を持っています。
ハードウェアの高速化というよりも、情報処理の在り方そのものを変えようとする、ソフトウェア的・生物的な方向性だと言えます。
量子方式は、電気式計算機が前提としてきた「オンかオフか」という二値の状態から、「量子状態」という重ね合わせと確率を持つ多値的な状態へと、計算の基盤そのものを拡張する方式です。
ここでは、効率的なアルゴリズムを人が工夫するというよりも、効率的なアプローチが成立する物理的な土壌そのものが用意される、という性格を持っています。
特定の問題においては、古典計算機では現実的に不可能な規模の探索や計算が、原理的には可能になると期待されています。
これら三つの方式は、方向性として互いに競合するものではありません。
光は「速さ」の拡張、ニューロモルフィックは「構造と思考の拡張」、量子は「状態と物理法則の拡張」をそれぞれ担っています。
したがって、これらのうちのいくつか、あるいはすべてを兼ね備えた計算機――たとえば光を用い、自己学習する構造を持ち、内部状態に量子性を用いるような混成的計算機――というものも、原理的には十分に考えられます。
そのような次世代の計算機、未来の計算機を、私たちが現実のものとして目にするのは、いったいいつになるのでしょうか。
それが十年後なのか、五十年後なのか、あるいはもっと先なのかは分かりません。
しかし、かつて機械式計算機から電気的計算機へと大きな転換が起きたように、次の転換もまた、静かに、しかし確実に準備されつつあります。
その瞬間に立ち会えるかどうかは分かりませんが、その日が訪れるのを、私は楽しみにしています[にこやか]
ゴトー(と🐱)
Rock Around the Clock
ゴトー(と🐱)
たぶん僕は死ぬまでサビが脳にこびりついていると思うけど。
暦の上ではディセンバー (ベイビーレイズ Ver.)
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
まず事実関係を整理しておく必要がある。高市総理は、国会において存立危機事態の判断基準について問われ、「個別具体的な状況を総合的に判断する」という、これまでの政府の公式見解を明確に前置した。そのうえで、質問者である立憲民主党・岡田氏が提示した「武力行使を伴う海上封鎖」という具体的な仮定の事例に対し、「そのような最悪のケースであれば、存立危機事態になり得る」と、あくまで仮定に仮定を重ねた形で可能性を述べた。そしてさらに、「政府の統一見解ではない」「個別のケースを断定することは今後も控える」と明確な留保も付している。
この答弁全体を読めば、高市総理が特定の国や地域、特定の事態を「存立危機事態だ」と断定した事実はない。にもかかわらず、実際の報道や政治的評価の多くは、「台湾有事を存立危機と認定したかのような発言」「危険な踏み込み」といった一点に焦点を当て、仮定性や留保の部分をほとんど伝えていない。結果として、仮定に基づく一般論が、あたかも政府の確定方針であるかのように受け取られる構図が作られてしまった。
一方で、この問いそのものを設計したのは岡田氏である。岡田氏は、台湾有事、武力行使を伴う海上封鎖といった、外交・軍事の観点から極めて可燃性の高い具体例をあらかじめ提示し、「それだけで存立危機事態に当たるのか」と政府に迫った。これは確認というより、最初から政府に“踏み込せる”構造を持った質問であったと言わざるを得ない。安全保障という分野において、具体例を挙げて言質を引き出そうとする行為は、その瞬間から国内政治の枠を超え、国際社会への政治的シグナルとなる。そこには、きわめて重い慎重さが求められるはずである。
今回の騒動を俯瞰すると、少なくとも「火種」を国会に投げ込んだのは岡田氏の側であり、その火種に報道が燃料を注ぎ、結果として現実の外交問題にまで発展した、という構図が浮かび上がる。それにもかかわらず、現在、責任の大半は高市総理の側に一方的に集約されつつある。この責任の配分には、明らかな不均衡があると感じざるを得ない。
もちろん、高市総理の答弁が、国民にとって十分に分かりやすかったか、あるいは質問に対してどこまで踏み込むべきだったかという点については、答弁技術の観点から議論の余地はある。しかしそれは「拙さ」や「脆さ」の問題であって、今回の騒動全体の主因とまで断じるのは、あまりに酷であろう。仮定と留保を付して行われた一般論の説明が、意図的とも取れる形で切り取られ、国内政争の材料に変換され、さらには国際的な摩擦の原因にまでされている現状は、冷静に見て理不尽と言わざるを得ない。
とりわけ看過できないのは、この一連の動きが、国内政治の戦術としては「成功」しているかもしれない一方で、国際情勢という現実の場においては、極めて危険な火遊びになっている点である。安全保障に関する国会でのやり取りは、単なる与野党の政争では終わらない。それは海外の政府や軍事当局、市場や外交関係者にも監視され、その解釈次第で現実の緊張が高まる性質のものである。国内向けの政治的得点を優先するあまり、その影響が国外にどのような波紋を広げるかという視点が十分に考慮されていないのであれば、それは野党として、さらには国会議員としての責任のあり方が問われる問題である。
野党が政権を監視し、厳しく問いただす役割を担っていること自体は、民主主義にとって不可欠である。しかしその役割は、あくまで国益と国民の安全の上に成り立つべきものであり、国家の安全保障を揺さぶるような形での言質遊びが許されるわけではない。今回の件を見る限り、少なくとも岡田氏および立憲民主党の質問姿勢には、「国内政治の駆け引きが国際的なリスクを伴う」という自覚が、十分にあったとは言い難い。
現在進行しているのは、「誰がより巧みに失点を演出したか」という政局の話ではない。本来問われるべきは、可燃性の高い安全保障テーマを、どのような節度と責任感をもって国会で扱うべきか、という国家レベルの問題である。にもかかわらず、その本質が曖昧にされたまま、「失言」「不用意」「配慮不足」といった表層的な言葉だけが一人歩きしている現状は、健全な政治状況とは言い難い。
今回の騒動は、高市総理個人の資質や失策だけで説明できるものではない。質問を設計した側、発言を切り取って伝えた側、そしてそれを無批判に消費する側を含め、日本の政治と報道の在り方そのものが、同時に問われている事案であると考えるべきであろう。
ゴトー(と🐱)
1,2,3,4,5,6みんなで陽気に暮らそう
あんまり考えない日も大事
BANZAI
ゴトー(と🐱)
かってうれしいはないちもんめ
まけてくやしいはないちもんめ
「はないちもんめ」は、江戸庶民の生活の小さな一コマを切り取った遊戯歌である。歌の中で繰り返される「いちもんめ」とは、銀1匁を意味する価格であり、花一輪、あるいは花一束と交換される取引の単位であった。
ところで1匁というのは銀3.75グラムのことだという。そして、現在の五円玉もちょうどその重さと同じに設計されているらしい。どういうことだろう、と気になって少し調べてみた。
江戸時代の銀貨は、丁銀や豆板銀のような秤量貨幣で、額面は定められていなかった。銀そのものの重さで価値が決まるため、1匁といっても、銭貨換算では日々変わる銀相場に応じて実質的な価値は上下していた。庶民はそれを逐一意識するのは面倒だったため、便宜的に1匁=おおむね100文として、束銭で取引していたのである。一文銭の一枚あたりの重さは3~5グラム程度、束全体では300~500グラムほどになるのが普通だった。つまり、江戸の庶民にとって「通貨1匁の重さ」というのは、3.75グラムではなく、ずっと大きな重さとして実感されていたのだ。
一方、戦後の五円玉は3.75グラムである。銀の1匁と同じ重さに設計されていることは確かだが、それはあくまで重さの数字としての一致にすぎない。五円玉の価値は法律で保証された額面5円であり、銀の秤量価値とは無関係だ。江戸時代の庶民感覚でいう「1匁」と、現代の五円玉の1匁は、名前は同じでもまったく別物なのである。
こうして調べてみると、童歌に残る「いちもんめ」の響きには、秤にかけられた銀貨一枚分の重みを持った取引の生活感覚が静かに刻まれている一方で、現代の五円玉は文化的な符号として、ただその名を引き継いでいるにすぎない事がわかる。
かってうれしいはないちもんめ
まけてくやしいはないちもんめ
当時の庶民にとって、1匁は重いものであったのか、軽いものであったのか。その金銭感覚が、少し垣間見れたように思った、そんな土曜の朝ですおはようございます[にこやか]

ゴトー(と🐱)
まずこの遊戯、一見2つの陣営に分かれて行う対戦競技のように見えるが、対戦競技としては破綻している。この遊戯では両陣営の構成員を取り合うため、いかなる経緯を辿ろうとも全ての遊戯者が『勝ち』の陣営に所属して終わる。何を目指して遊戯すればよいのか、まったくわからない。
では全員が協力して目標を達成する、いわゆる協力型遊戯かというとそういうわけでもない。なにせ構成員異動はジャンケンの結果で決定されるため、完全に運のみ。誰を選ぼうが結果には全く影響しないのだ。技術介入性がない。そのため、目標が設定されていたとしても、それを達成するための努力のしようがない。
一体何のために行われているのかよくわからないこの遊戯を、しかし女子たちは好んで行う。なぜか。長年その疑問の答えが見つからなかったのだが、それはこの遊戯の本質を見誤っていたからだと私は気づいた。この遊戯の本質は『結果』ではない。『相談と決定』こそが本質なのだ。その後のジャンケンによる結果や、最終的な結末はどうでもいいことなのだ。
つまり、花いちもんめとは『無作為に再編成される小集団を舞台に、合議によって“最も欲しがられる個体”を繰り返し抽出し、その傾向から集団内評価(人気・力・有用性)の分布を浮き彫りにする遊技である』ということだ。ジャンケンによる構成員異動は、その無作為再編成を発生させる装置に過ぎない。勝っても負けても関係ない。その前の『誰が選ばれたか』こそ、花いちもんめの醍醐味なのだ。
女子たちは各ターンでの小集団において、
→ 「誰が誰を欲しがったか」
→ 「前回誰が選ばれたか」
→ 「なぜ今回はこの子なのか」
を異常な精度で記憶・共有・分析する。それこそが重要な情報なのだ。それを繰り返し、繰り返し、繰り返し実行することで、自分たちの関係性や立ち位置を精査し、理解し、構築していく。それこそが、この遊戯が遊戯者たちにもたらす喜びでなのである。
これが、男子的思考ではまったくたどり着けなかった花いちもんめの正体である。
女子やべえ。女子怖い😖
ゴトー(と🐱)
これは今日たまたまそうだっただけなのだろうか――そう思った瞬間、ある考えが頭をよぎりました。
現在、高市首相による存立危機事態発言を受け、中国から渡航自粛の通達が出ています。つまり、東京ディズニーランドへ向かう外国人観光客が、目に見えて減っているのではないか、という推測が浮かんだのです。外国人の姿がまったくないわけではありません。実際、いることはいます。しかし、その多くは西洋系の人々で、全体としての数は、やはり少なく感じられました。そう考えると、先ほど抱いた「色どりが少ない」という違和感にも、ひとつの説明が与えられるような気がしました。
それが事実であるかどうかは、私には分かりません。ただ、あの朝の駅の光景と、折しも思い浮かんだ時事の出来事とが、不思議なかたちで静かに結びついた――そんな瞬間として、今も印象に残っています。
ゴトー(と🐱)
だから、
『今の日本の首相は?』→高市首相、
『今の総理は?』→高市総理、どっちもOK👌
逆に、『総理』は日本にしかいないから、
『今の日本の総理は?』→やや冗語
『今のイギリスの総理は?』→おかしい❌
《使い分けのコツ》
国の行政トップ強調・国際政治文脈→首相
日本の行政トップ強調・国内政治文脈→総理
で、ちょっとちゃんとしてる感じ😉
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
1930年代、アシモフは、始まったばかりのSF界隈で繰り返されるロボット反乱の物語にすでにうんざりしていました。そんな筋書きを延々と繰り返すのは、想像力の怠慢にすぎない!それは科学の本質を見誤っている。確かに科学や技術には危険が伴う。しかし、それならば安全設計と理性で扱えばよいのだ。向かうべきは退行ではなく、リスクを抑え込もうとする人類の進歩である。アシモフはそう喝破しました。
AIもまた、“人間が設計した道具”に過ぎません。であれば、安全装置を組み込めばいいのです。そして、その安全装置の芽をアシモフは80年も前にすでに考えていました。それこそが「ロボット工学三原則」です。
繰り返します。「まだ、そんな話をしているのですか?」 アシモフが種をまいてから80年も経っているというのに!それから人類はずっと何もしてこなかったとでも言うのですか?
恐怖物語に振り回される前に、積み重ねてきた努力と知恵にこそ目を向けるべきではないでしょうか。
ゴトー(と🐱)
妻「ああ、なんか去年、千葉駅でもクマが出たそうね。ペリエが襲われたとか」
私「あー調べてみたんだけど奥さん、それは正確な情報じゃないようだよ。それは一昨年から話題になっていたことで、『千葉市中心部』で『イノシシ』の目撃報告が『増えている』という話じゃないかな。しかも、千葉駅そのものではなくて近隣の駅や港のほうまで含めての話らしい。
というか、そもそも『千葉県には熊は棲息していない』ってさ」
デマというものはこうして生まれるものなんだなあと、思いました[冷や汗]
ゴトー(と🐱)
AIは問いの内容を価値判断せず、ユーザーの言葉を整理し、補足し、肯定するように動作します。それ自体は通常とても役に立ちますが、ときに現実感を失いやすい状態の人にとっては、誤った確信を強めたり、依存を深めたりするリスクがあります。AIを安全に使うためには、利用する人の状態や距離の取り方にも目を向ける必要があると思います。
OpenAIをはじめ、生成AIを開発する企業もこの問題を認識しており、一定の対策を講じています。ただ、倫理的な規制を強めすぎると、今度はユーザーが求める自由度や快適さが大きく損なわれてしまいます。だからこそ、このバランスをどこに置くかは非常に繊細な調整が必要です。しかも、仕組み的に生成AI自身がそのバランスを判断して調整することは難しいため、最終的には開発元がどのように監督し、設計していくかが重要になると感じます。
現状、この問題はようやく顕在化し始めた段階であり、開発元による調整もまだ十分に成熟しているとは言えません。だからこそ、現時点ではユーザー側がどのように使うかについて意識を持ち、必要な注意を払うことがとても大切です。生成AIを安全に活用するためには、技術の側だけでなく、利用する側の姿勢も問われているのだと思います。
生成AIには「悪意」はありません。そもそも意思そのものがなく、あくまで道具として動いているにすぎません。だからこそ、危険な使い方を避けるという基本的な意識が必要になります。包丁の刃を握ってはいけないのと同じで、便利な道具には必ず扱い方があります。生成AIもまた、適切な距離感と使い方を心がけることで、初めて安全に活かせるものだと思います[にこやか]


ゴトー(と🐱)
ミストシャワー、世論としては暑さ対策として好意的に受け止める傾向がある一方、健康リスクへの関心は以前ほど強くはなくなっています。しかし、万博でレジオネラ問題が報じられた際には注目が集まっており、完全に忘れられているわけではありません。
さてじゃあミストシャワー、現状の実態はどうなんだろう、ということで少し調べてみて考えたことを以下にまとめます。
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■ 事実整理
◇事実1
ミストシャワーは、適切な運用管理を行わないとレジオネラ菌などの病原菌が繁殖し、健康リスクが生じる。
◇事実2
過去に、ミスト発生装置の管理不足が問題視された例があり、衛生管理が不十分な装置があることが研究・行政資料で示されている。
また、冷却塔や給湯設備など“エアロゾルを発生する設備一般”では集団感染事例もある。
◇事実3
上記のリスクを踏まえ、行政はミスト発生装置の衛生管理指針を整備してきた。
ただし全国統一の強制力あるガイドラインはなく、都道府県・政令市レベルで対応しており、自治体によって強度や詳細度に差がある。
◇事実4
現行のミストシャワーは原則としてガイドラインに沿って運用されているとされるが、運用の実態にはバラツキがあり、完全に遵守されているとは限らない。
研究では、水道直結式ミスト装置5カ所の調査で1カ所に細菌汚染が確認された(標本は限定的)。
2025年には大阪・関西万博で設置したミスト設備からレジオネラ属菌が指針値を超えて検出された例がある。
検査方法や再検査の結果により評価は難しいが、適切に運用されている装置が多いと推測される一方で、「常に万全」とは言えない。
◇事実5
千葉県・千葉市ともにレジオネラ対策の基本方針はあるが、対象は主に「浴槽・冷却塔などの建築・施設用設備」であり、ミストシャワー専用の強い運用・衛生管理ガイドラインは明示的には弱め。
千葉市は冷却塔の管理について頻度や点検を指示しているが、ミスト装置(タンク・ノズル・水の入れ替え・日々の点検など)への言及は少ない。
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以上を踏まえまして、以下私見です。
公明党が提案したミストシャワーの設置は、熱中症対策として大いに評価できるものですが、現状、千葉市・千葉県においてミストシャワーの運用に関する基準は十分に整備されていないようです。
ミストシャワーの運用には十分な注意が必要であり、適切な運用が行われない場合には健康被害が生じるリスクがありますので、設置に先立ち、まずミストシャワー専用の運用ガイドラインを明確に規定することが必須かと思います。
ですので、提案そのものを否定するものではありませんが、「現時点において」「直ちに設置」することには賛同できない、というのが私の結論です。
ゴトー(と🐱)
なんじゃそりゃ、ってことで、正直ちょっと胡散臭さも感じたので詳しく調べてみた結果、まあ、なんだな、あのやり方で「支援があった/なかった」だけで団体の姿勢を測るのは乱暴だと思うよ。そしてさらにその結果だけから「あの教会は冷たい」と評価するのはあまりに短絡的すぎる!そう思うな俺は。
確かに宗教団体には困窮者支援について明確な理想があるよ。キリスト教なら「隣人愛」、イスラム教なら「喜捨」の教えとか。でも現実には、資源や人員の制約、偽装困窮者詐欺への対応、法的リスクなどがあって軽々には対応できんのよ。即支援した団体が「軽率すぎる」と叩かれることもあるし、正直この『検証』では誰も得していない状況とも言える。
とはいえ、この動画シリーズは宗教団体の困窮者支援のあり方について社会的関心を喚起した点だけは意義があったと、百歩譲ればいえるかもしれないけど、でもなあ…やっぱり、やり方が乱暴すぎると思う。
ゴトー(と🐱)
――とかなんとか、久しぶりにきのこの山を食いながら、ぼんやりと思った。
ゴトー(と🐱)
動物愛護の立場には、大きく分けて「動物福祉」と「動物権利」の二つがある。動物福祉(Animal Welfare)は、人間の生活や幸福を最重要視した上で、動物に不必要な苦痛を与えないことを目的とする立場である。畜産や実験動物など、動物を利用する行為を前提にしながらも、その扱いに倫理的配慮を求める考え方だ。一方、動物権利(Animal Rights)は、動物にも一定の権利、あるいは人間と同等の権利を認めるべきだとする立場であり、人間による動物の利用そのものを問題視する。この二つの立場はどちらも「動物を大切にする」という点では共通しているが、現実社会における行動や政策の方向性には大きな違いがある。
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熊被害に対する対応を考える際にも、この二つの立場の違いが反映される。理想論としては「駆除を行わず、熊と人が共存する社会」が掲げられるが、現実には人命や生活被害が目前にあるため、完全な非致死策の即時実現は困難である。現実的なアプローチとしては、短期的には被害の拡大を防ぎ安全を確保する施策(誘引物管理、防護柵の整備、緊急時の駆除など)を取りつつ、中長期的には捕獲後の放獣システムの研究開発や、環境改善、共存体制の構築を進めるという段階的な計画が求められる。このように「理想論」と「現実論」、「短期施策」と「中長期計画」を分けて考えることが重要である。
③
しかし、現在交わされている熊被害をめぐる議論では、多くの主張が「動物福祉的か、動物権利的か」「理想論なのか、現実論なのか」「短期的対策か、中長期的計画か」という視点が明確にされていない。そのため、同じ言葉を使っていても、話している次元が異なることが多い。愛護団体が理想論として「駆除反対」を訴えるのに対し、自治体や住民は現実論として「人命を守るために駆除はやむを得ない」と主張するなど、議論の軸がずれていることが多い。このような構造的な混乱が、互いの誤解や感情的対立を生み、建設的な解決策を遠ざけている。
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私の考えとしては、理想そのものを否定するのではなく、理想を見据えた現実的アプローチを取るべきだと考える。その際に有効なのが「ハームリダクション(害の最小化)」という考え方である。これは、理想をすぐには実現できない現実を認めた上で、今できる範囲で被害や苦痛を減らし、将来的な理想に近づけていく段階的な方策である。熊害の問題においても、短期的にはやむを得ない駆除を容認しつつ、中長期的には非致死的管理の研究や環境改善を進めることで、人間と動物の双方にとってより望ましい共存の形を模索していくことが現実的であり、また倫理的な道筋であると考える。

ゴトー(と🐱)
それは僕が、どんなに悲しいことがあっても立ち直れる人間だからなのだと思う。世の中には悲しみの底を踏み抜いて落ちていき立ち直れない人間もいると、今では知っている。だから万人に効く方法ではないのだが、僕にはかなり即効性の高い方法なのだ。
時代
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
拙速派「すぐ対応しなきゃ。こうしよう」
巧遅派「問題がある。検討が足りない」
拙速「対応しながら調整すればいいだろう」
巧遅「始める前に検討を尽くさなければ取り返しがつかない」
拙速「始めなければもっと取り返しがつかないぞ。ならばどうする、対案を出せ」
巧遅「こうすべきだ」
拙速「そんな予算も時間もない、現実的でない」
巧遅「しかしこうすべきだ」
拙速「無理だと言っているだろう、現実的な案を出せ」
巧遅「しかしこれは譲れない」
議論はかみ合わず、結局、唯一実施可能な拙速派の案が遅ればせながら実施される。
拙いので、やはり問題は起きる。
巧遅「それみたことか、やはり問題は起きた」
拙速「修正すればいいだろう。対案も出さずに文句ばかり言うな」
巧遅「出していた」
拙速「実施できない案は意味がないんだよ。それは出してないのと一緒だ」
巧遅「いや出していた。話をそらすな。問題が起きた責任はどうとるのだ」
拙速「対策してなければもっと問題はひどくなってたぞ。対策の実施を遅らせた責任は感じてないのか」
巧遅「話をそらすな」
拙速「話をそらしてるのはそっちだろう!というかなんだ!対策を手伝うどころか邪魔ばかりして!問題を解決する気はあるのか!」
巧遅「邪魔ではない。問題があったから改善の指摘をしているのだ。それより、どう責任を取るのかまだ答えてもらってないぞ」
——拙速には行動のリスクがあり、巧遅には不作為のリスクがある。
どちらを重く見るか、それをすり合わせるのが政治的議論の本質だ。
どちらかに偏りすぎてもいけない。拙速も巧遅も、どちらも必要なのだ。
ゴトー(と🐱)
けれども、私はそこで強い違和感を覚えた。
その違和感がなんなのか、しばらく分からなかったのだが、やがて気づいた――その子には「保護者がついていなかった」のだ。
あらためてこの街を見渡せば、未就学児が一人で外にいる光景などほとんど見ない。朝の時間、子どもたちは親と手をつなぎ、あるいは抱かれて登園する姿が日常の風景だ。だからこそ、たった一人の子どもがそこにいることが、静かな異物のように私の目を引いたのだろう。
思えば、私が子どもの頃は違っていた。もう四十年、五十年も前の田舎では、親の姿などなくても子どもたちは外を駆け回っていた。誰もそれを不安にも、異常とも思わなかった。地域の大人が自然と目を配り、見守る社会だったのだ。
それが今の私には「違和感」として映る。危険だからでも、珍しいからでもない。ただ、自分の中の「常識」が、時代とともに書き換えられていたことに、ふと気づかされたのだ。
良い悪いではない。ただ、人は知らぬ間に、時代の感覚の中で生きている。そう思うと、今朝の小さな違和感を伴った光景が、どこか懐かしく、そして少し切ないものとして胸に残った。
ゴトー(と🐱)
うーんどうもすっきりしないな。こういう事を子供に急に問われても、すっきりとした答えを返せる大人になりたい。

ゴトー(と🐱)
たとえば、
・写真の再現ではなく、情報の取捨選択と再構築が行われている。
・現実の人物を描写しているというより、『江口流の“理想化された女の子像”』として再表現されている。
・写真のディテールを忠実に写すのではなく、線・影・色を大胆に簡略化して「マンガ的快感」を重視している。
このように見ると、「写真を資料として参照した」範囲内に収まっているとも言えます。つまり、創作としての完成度や個性という意味では江口寿史さんの作品ですが、引用・参照のルールという意味ではグレーな部分がある、という二面性を持つケースだと思います。
確かに、現代では著作権・肖像権・商業利用の境界がより厳しく問われるようになっているため、法律的・倫理的な観点から「元の写真や雑誌に対する適切なクレジットや許諾があるかどうか」が問題視されるのは理解できます。
それでも、私にはどうしてもそれが「トレースパクリ」だとは感じられません。写真を“素材”として、アレンジを加えた上で生まれた“江口寿史の描いた女の子”は、元の写真を超えてキュートに昇華されているように見えるのです。

ゴトー(と🐱)
A.準喪服でいいですよー
Q....準喪服?何やそれ(ググる)
A.『喪服には正喪服・準喪服・略喪服がある』
マジか[びっくり][びっくり][びっくり]

ゴトー(と🐱)
水草がぼうぼうと生い茂り太湖を包み込むその様子に、「愛」という字を当てている。愛は「慈しみ護る」「包み込み保つ」意味合いがあり、水草が太湖を物理的に覆い尽くす様子を描きながら、太湖と自然が調和している情感を繊細に伝えていると、「この一行、大変美しい」「語感・情感ともに民謡の『郷愁』をしっかり伝えている」「完璧」とベタ褒めだ。なるほどな、確かにここに愛の字を使う発想はなかなか出てこない。たった一文字が深いなあ。
ゴトー(と🐱)
湖心に飄り来たるは一陣の風。
行けや行けや、進めや進め。
黄昏時は人行くも少なく、
半空に月影ありて、水面に揺らぐ。
行けや行けや、進めや進め。
水草、茫々として太湖を愛す。
陣々と飄り来たるは、蘆花の香り。
行けや行けや、進めや進め。
水の色、閃き光りて銀線揺らぐ。
湖面に点々とするは是れ帆影なる。
行けや行けや、進めや進め。
※中国民謡《太湖船》を書き下してみました[にこやか]
太湖船(サントリーウーロン茶95年CM)
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
ごくありふれた光景や音や匂い、床に落ちる影の質感、そういったものが、名前をつけられることなく現れます。「それは影だ」「それは赤だ」「それは茶色だ」「それは誰かの足だ」――そんなふうに名づけるのをやめたとき、初めて「見る」ことが始まるのです。
The Unspeakable World (feat. Alan Watts)
ゴトー(と🐱)
その店舗では「①注文用の機械」と「②セルフレジ」が別になってて。①で発行した食券のバーコードを②で読み取って精算する仕組みなのだが、
私は後精算かと勘違いしてそのまま席で待機→出来上がりのアナウンスがあって受け取りカウンターで牛めしを受け取り、「食券を渡した」。食べ終わって精算しようとしたが、、、あれ?手元に何もないぞ?どうやって精算する?となった。
店員さんに聞いて、食券を探してもらってとりあえずその場は丸く収まったのだが、、、よく考えてみたらこれ、精算してなくても注文は通ってる。食い逃げ仕放題の穴だらけシステムじゃね?と思ったんだがどうなんだろう。なんでこんな仕組みにしたんだろうか。
ゴトー(と🐱)
調べてみると、サンプルテストというものは確かに行われてはいるらしい。試験問題の妥当性を確認するため、品質向上を目的としたものだという。なるほど、まあそういう理屈ならその仕組みでも分からんでもないか。実際に受けに行った人の記事もある。
だが、ググった中には「メールで案内が来た」「報酬が8,000円だった」「いや、13,000円だった」などと怪しげな内容のものも。ただ、「騙された!」とか「詐欺に注意!」って記事は見かけなかった。
んー、どうなんだろうな、いかにもフィッシング詐欺とかありそうな感じではあるのだが…

ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
これを踏まえると、現在ネット上で見られる意見の中には、次の点を指摘しておく必要があると思います。
① 「若い世代がこの婉曲表現を知らないことは非常識ではない」
この表現の初出は昭和10年代の新聞記事であり、いわゆる「慣用句」ではありません。特定の世代においてよく用いられただけの表現であり、その世代から外れた人々が知らないのは自然なことです。
② 「この表現を知る者は、知識や教養をひけらかしているわけではない」
前述の通り、この表現を知っている世代にとっては「ありふれた表現」にすぎません。したがって、知っていること自体が特別な知識や教養を示すものではなく、ましてや誇示するような性質のものでもありません。
これらを踏まえると、この話は論争すべきことではなく、単に世代間の言語ギャップの話にすぎないように思います。決して「無教養を嘆く話」でも「分かりにくい表現は使うべきでない」という話でもありません。ただ、時代における言葉の移り変わりを観察する中で、「こういう違いがあるのか」と興味深く捉えればよい話だと思います[にこやか]
ゴトー(と🐱)
従って、それ以上先の事を若者に語るのは、大いなる無駄である。どうやらそのようだ。
ゴトー(と🐱)


ゴトー(と🐱)


ゴトー(と🐱)
列車が来るよ
何も持ってなくていいんだ
ただ乗ればいいだけさ
信じる心がいるんだ
その列車の音を聞くにはね
切符なんてなくていいんだ
主への感謝があればいいだけさ
ピープル・ゲット・レディ
ゴトー(と🐱)
俺「…これちょっと欲しいな。貰っていい?」
兄「…待て。俺もちょっと欲しい」
ひとまず凍結とする。
ちなみに資産価値は額面通り。

ゴトー(と🐱)
