ゴトー(と🐱)
大人にならなきゃなーと思ってる大人。
🐱の名前はマルです(13歳)
ゴトー(と🐱)
1. 撮影現場に響いた怒号:事件の概要
2020年12月、ロンドンで撮影中だった映画『ミッション:インポッシブル』の現場から、主演トム・クルーズの激昂する音声が流出した。
きっかけは、スタッフ2名がソーシャルディスタンスのルールを無視して隣り合って立っていたことだった。トムは「次やったらクビだ!」「俺たちは何千もの雇用を守っているんだ!」と、放送禁止用語を交えながら約2分間にわたって怒鳴り散らした。
当初、この音声は「スターによるパワハラ」として批判的に報じられた。しかし、次第に世論は一変する。当時のハリウッドはパンデミックで壊滅的な打撃を受けており、トムが自腹で巨額の対策費を投じて現場を守ろうとしていた背景が判明したからだ。「彼の怒りは正当なものだ」という支持の声が、世界中を席巻することとなった。
2. 「パワハラではない」と言い切れるか
しかし、ここで冷静に立ち止まる必要がある。彼が抱いていた熱意や正義を脇に置いたとき、この言動は「パワハラ」ではないと言えるだろうか。
グローバルな基準、例えば国際労働機関(ILO)が定める「仕事の世界における暴力及びハラスメント(第190号条約)」や、より厳格な企業のコンプライアンス基準に照らせば、その評価は極めて厳しいものになる。
・優越的な地位の利用: トムは主演俳優であり、事実上の最高責任者(プロデューサー)である。スタッフとの間には、絶対的な権力格差が存在していた。
・身体的・精神的な苦痛の付与: 大勢の前で怒鳴りつけ、解雇を盾に脅す行為は、業務上の指導として「相当な範囲」を超えている。
・環境の悪化: 恐怖による支配は、短期的には規律を生むが、心理的安全性を損なうため、ハラスメントの要件を十分に満たしている。
結論として、彼の行動は現代の基準において「パワハラ要件を明確に満たしている」。
3. なぜ、このパワハラは「受容」されたのか
では、なぜこれほど明らかなハラスメントが、世界中で賞賛に近い形で受け入れられたのか。そこには、トムの行動に「あったもの」と「なかったもの」が決定的な役割を果たしている。
まず、彼の怒りには「圧倒的な利他性」があった。
彼は自分のメンツや利益ではなく、映画業界の存続と、名もなき数千人のスタッフの「雇用」を守るために怒っていた。この「誰かの人生を背負っている」という覚悟が、言葉の毒性を中和させた。
そして、彼の怒りには「自己愛」や「責任逃れ」が全くなかった。
もし、彼が自らルールを破っていたり、失敗の責任を誰かに転嫁しようとしたりする素振りが少しでもあれば、この怒りはただの見苦しいパワハラとして断罪されていただろう。自らも最前線でリスクを取り、誰よりも努力しているという「背中」があったからこそ、周囲は彼の暴走を「悲痛な叫び」として受け取ったのである。
4. 私たちが安易に真似をしてはならない理由
このエピソードを「正しい目的のためなら怒鳴ってもいい」と解釈するのは、極めて危険な誤解である。私たちがこの事件の「キャットコピー(形だけの模倣)」を厳に慎むべき理由は、私たちがトム・クルーズではないからだ。
第一に、私たちは往々にして、自分の感情(イライラ)を「正論」というオブラートに包んで吐き出してしまう。トムのような100%の利他性を維持できる人間は稀だ。
第二に、恐怖によるコントロールは、現場の透明性を奪う。一般の組織で同じことをすれば、部下はミスを隠し、報告を怠るようになり、結果として組織はより大きな破滅へと向かう。
トム・クルーズの件は、極限状態における「特権的な例外」に過ぎない。私たちが彼の振る舞いから学ぶべきは、怒声の上げ方ではなく、彼が背負っていた「覚悟」の方である。
自分の正しさを証明するために声を荒らげる時、そこにはもう正義はない。人は「正しければ何をしてもいい」というわけではない。その免罪符が人に与えられた瞬間、正義は暴力へと変貌するのだ。
トム・クルーズの取った行動は、あの瞬間においては称賛に値する。だが、私たちは安易にその真似をするべきではない。
ゴトー(と🐱)
ゴトー(と🐱)
トロッコ問題について、また少し話題になっているところを目にしたので、改めて私なりにこの問題を考察してみた。その見解をまとめる。
1. トロッコ問題を「分解」する
まず私はこの問題を2つの問題に切り分けて考えてみた。
問題1(救助): スイッチを切り替えれば5人が助かる。これは純粋な「救済」であり、善行である。
問題2(殺人): スイッチを切り替えれば1人が死ぬ。これは純粋な「加害」であり、原則として悪行である。
切り離して考えれば答えは明解で、「救助はすべき」であり、「殺人はしてはならない」。
ここで善行はすべきだが、しなくても直ちに「問題」とはならない。だが悪行はしてはならず、それを行えば明確に「問題」となる。従って、トロッコ問題で真に重視すべきは、この「殺人の是非」の方である。
2. 「殺人は赦されない」という原則と例外
原則として、殺人は赦されない。しかし、緊急避難や正当防衛、義務の衝突といった「例外」が存在するのも事実だ。
ここで重要なのは「1人より5人が重い」という単純な計算ではない。その殺人を許容せざるを得ない「正当な理由」が、当事者にあるかどうかだ。
社会的にはそれを判断する規範があり、問題文に記載されていない様々な条件によって事後的に裁かれるだろう。
それがトロッコ問題に対する「社会的な解答」として、一旦与えられる。
3. 「個人の正義」
しかし、それはあくまで「社会的な正義」の話である。法や規範は、命を平等に扱い、合理的な選択を求める。
だが、もしいずれかの進路の先に我が子がいるとしたら? 法や規範などはどうでも良い、他人より我が子を救うことは、その個人にとっての「絶対的な正義」だ。
社会の合理性を優先し、我が子を見捨てろと、社会の正義を押しつけて個人の正義を捨てろと強要するのは「思想の強制」であり、良くない思想統制だと、私は思う。
社会の正義で、個人の正義を上書きしてはならない。
4. 「裁き」を引き受けるという覚悟
ただし、これは「個人の正義を最優先に好き勝手していい」という意味ではない。
個人的な正義に従って行った行為であっても、社会に属する以上、社会のルールによって裁かれることは受け入れなければならない。
社会はあなたの心(正義)まで支配してはならないが、あなたは社会のルールに対して責任を負う。
この「裁きを引き受ける覚悟」こそが、あなたが個人の正義を持って社会を生きる唯一の道である。
トロッコ問題の誤解は、「社会の正義が、個人の正義を上書きすべきだ」という強迫観念にあるように思う。
正義は多層的で良い。人は自らの正義に従って生きる自由を持ち、その代償を社会に対して支払う責任を持つ。
この矛盾を引き受けて立つことこそが、人間の尊厳ではないか。
……と、私は考えた。
ゴトー(と🐱)
星にのって銀河を渡ろう
かわいいあの娘と踊った場所は
今じゃあ 場末のビリヤード
大寒町に雪降るころは
もうじきだね 呼んでみようよ
輝け星よ 月よりも
あの娘のしあわせ てらしだせ
大寒町にロマンは沈む
星にのって銀河を渡ろう
大寒町
ゴトー(と🐱)
「蛙」とは、当時のイングランド女王エリザベス1世への求婚者の一人であったフランスのアランソン公フランソワのことにちなんでいると言われています。女王はアランソン公のことを、親しみを込めて(あるいは少し揶揄して)「蛙さん」と呼んでいました。
そしてダウランドの楽曲を聴く上で外せない著名なリュート奏者がポール・オデットです。彼は現代最高のリュート奏者の一人で、圧倒的なテクニックで、当時の時代考証に基づいた生き生きとしたリズムを感じることができます。
The Frogg Galliard, P 23 & 23a
ゴトー(と🐱)
現代の感覚において「国家の領土を売買する」という話は、にわかには信じがたい暴論に聞こえるだろう。しかし、歴史を紐解けばそれは決して目新しいものではない。特にアメリカ合衆国は、いわば「金で領土を広げてきた国」である。
象徴的なのは1867年のアラスカ購入だ。アメリカはロシア帝国から、当時の金額で720万ドルを支払い、あの大地を手に入れた。
そもそもそれ以前にアメリカの領土を一気に2倍へと膨れ上がらせたのも、1803年にナポレオン率いるフランスから北米大陸の広大な地域を1500万ドルで買い取ったからだ(ルイジアナ買収)。
さらに、今回話題となっているグリーンランドの宗主国、デンマークとの取引実績さえある。1917年、アメリカはカリブ海のデンマーク領西インド諸島を2500万ドルで購入した。それが現在の「米領ヴァージン諸島」である。
こうした歴史的文脈の上に、再び「グリーンランド買収」という現代の難題が浮上している。
『だが、いざ自分たちが売られる身となっては愉快であろうはずがなかった。』
当のグリーンランド住民はどう考えているのだろうか。デンマーク政府およびグリーンランド自治政府は、住民の代表として現時点では明確に反発している。しかし、かつてのアラスカがそうであったように、巨大な資本と安全保障という「値札」を改めて突きつけられたとき、彼らの意識はどう揺れ動くのだろうか。
「自分たちは売り物ではない」という誇りは、当然ながら第一に守られるべきものだ。だがその一方で、経済的なリアリズムから「デンマークの庇護下に留まるよりも、アメリカの一部となる方が豊かになれるのではないか」という冷徹な計算が、議論の端々に表れたとしても不思議ではない。
本来であれば、政府は住民投票によってその真正なる意思を確認しておくべきではないだろうか。
それとも……表向きの反発とは裏腹に、政府はすでに「より高く売りつけるための交渉」の最中にいるのだろうか。
ゴトー(と🐱)
AIによる文章や画像の生成が一般化するにつれ、「それは創作なのか」「創作であるなら誰のものなのか」という問いが繰り返し投げかけられている。私はこの問いに対して、次の立場を取っている。
AIを利用して制作されたものは創作であり、その創作の主体はAIではなく、それを用いた人間である。
この問題は、AIという新技術が突然生み出した新種の問いではない。1917年、マルセル・デュシャンが《泉》を提示して以来、「作品とは何か」「作者とは何か」は現代美術において100年以上にわたり検討されてきた。既製の便器を展示し、タイトルを与え、それを作品として提示したデュシャンは、ほとんど何も「制作」していないように見えた。しかしその行為によって、美術は大きな転換点を迎えた。作品とは、手で物を作ることによってではなく、意味あるものとして成立させる決定と文脈によって成立する、という考え方が定着していったのである。
この枠組みに立てば、AIを用いた制作も同じ構造を持つ。何を作るかを決め、方向性を与え、出力を選び、それを作品として提示するのは人間である。AIは表現を生成する装置であり、筆やカメラや既製品と同様に、創作のための手段や素材の側に位置づけられる。したがって、AI生成物を作品として成立させているのは人間であり、創作の主体もまた人間である。
この議論を混乱させないために、私は三つの論点をはっきり分けておきたい。
第一の論点は、それが創作であるか、そして誰の創作かという作者性の問題である。これが本稿の中心的な問いだ。
第二の論点は、その創作に用いられたリソースが正当に用意されたものかという倫理と権利の問題である。学習データや素材の取得が適法かどうか、他者の著作物を不当に利用していないかという問いは重要だが、それは第一の論点とは別の次元に属している。違法コピーで作られた映画や盗作小説が違法であるとしても、それが誰かの創作であること自体は否定されないのと同じである。
第三の論点は、その作品が優れているか、価値があるかという評価の問題である。AI作品が浅い、つまらない、量産的だという批判はあり得るし、それは批評として正当である。しかし、それもまた第一の論点とは別である。出来の悪い作品であっても、それが創作であることや作者が存在することは変わらない。
第一の論点――それが創作か、誰の創作か――を検討するにあたっては、第二と第三の論点を意図的に切り離さなければならない。切り離すべきであって、無視すべきではない。倫理や権利、そして作品の質は、それぞれ独立した重要な議題として、別途検討されるべきである。
現在のAIをめぐる混乱の多くは、この切り分けがなされていないことから生じている。リソースの問題や作品の質への不満という第二・第三の論点を根拠にして、第一の論点である作者性そのものを否定してしまう。しかしこれは論理的な飛躍である。
デュシャン以降に積み重ねられてきた現代美術の作者観に照らせば、現時点での主流的な理解は明確だ。作品とは、それを作品として成立させた人間の行為によって成立し、その人間が作者である。私はこの立場に立って、AIを用いた創作を創作として認める。認めた上でこそ、第二の論点である倫理と権利、第三の論点である作品の質について、冷静で実りある議論が可能になると考えている。
ちなみにこの文章もAIの手を借りて書かせたものであるが、紛れもなく『私の投稿である』ことを明記しておこう。
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
新婚当時、妻の味噌汁はごく普通に具だくさんだった。大根、人参、わかめ、豆腐、時には豚肉まで入っている。新妻の料理にいちいち口を出すのもどうかと思い、私は黙ってそれを食べていた。美味しくないわけではない。ただ、どこか落ち着かなかった。
転機が訪れたのは、ある日の夕食である。妻が運んできた椀を見た瞬間、私は一瞬それが味噌汁だと分からなかった。表面を覆うのは具、具、具。。。箸を入れても、なかなか液体にたどり着かない。「ちょっと作り過ぎちゃって」。妻はそう言って笑ったが、私は思わず口にしてしまった。
「……味噌汁って、『汁』なんだぞ」
妻はきょとんとした顔をする。
「え? 味噌汁は具でしょう。具が多いほどいい味噌汁じゃない」
いやいや…、と私は内心でうめいた。もう一度、言葉を選びながら言い直す。
「味噌汁ってのは、『汁』が本体なんだ。俺は味噌汁では汁が飲みたいんだ。
極端な話、『具がなくても味噌汁は成立する』」
「具のない味噌汁なんて、それは味噌汁じゃない!」妻はきっぱりと言う。
もちろん、私だって具の役割を否定しているわけではない。豆腐は舌触りを、わかめは磯の香りを、野菜は甘みを汁に与える。
だが、それはあくまで「影響」であって、「主役」ではない。出汁を取った昆布や鰹節を取り出しても、それが出汁であるように、具を引き上げても残るものこそが味噌汁なのだ。
しかし…それは妻の「味噌汁」の認識とは違っていたのだ。
その日以来、我が家では折衷案が採用された。鍋の中は相変わらず具だくさんだが、盛り付けの段階で私の椀にはできるだけ汁だけが注がれる。妻は具を山盛りにし、私は透明に近い褐色の液体を啜る。二人とも、自分の「味噌汁」を手にしている。
たまに、妻の椀をのぞき込むと、もはや煮物にしか見えないことがある。妻が私の椀を見れば、これはお吸い物ではないかと思うらしい。それでも、同じ鍋から生まれたそれぞれの一杯を前に、私たちは今日も食卓を囲んでいる。
もはや論争はしていない。私たちはそれぞれの求める味噌汁を食べて満足している。今日も我が家は平和そのものである。
ゴトー(と🐱)
白内障は、目の中の水晶体が濁る病気です。水晶体は黒目の中央、瞳孔の奥にあり、ふだんは透明なので存在を意識することはありませんが、病気が進行するとこの透明なレンズが白く濁り、外から見ても黒目の奥が白っぽく見えるようになります。ものがかすみ、まぶしくなり、視界全体に薄い霧がかかったような状態になるのが白内障です。白内障という名前は、この「白く濁った見た目」から生まれたもので、名前と実態が素直に一致しています。
一方、緑内障はまったく性質が異なります。これはレンズや角膜の病気ではなく、眼球の奥から脳へと情報を運ぶ視神経が壊れていく病気です。たとえるなら、カメラのレンズではなく、カメラとモニターをつなぐ信号ケーブルが傷んでいくようなものです。レンズがきれいでも、ケーブルが断線しかけていれば、映像は欠け、やがて途切れてしまいます。緑内障では、まさにそのように視野の一部が少しずつ失われていきます。
では、なぜこの「視神経の病気」が緑内障と呼ばれるのでしょうか。それは歴史的な偶然に近い由来によるものです。急性の緑内障発作のように眼圧が急激に上がると、瞳孔が開き、角膜がむくんで濁り、黒目が青緑色や灰緑色っぽく見えることがあります。古代ギリシャの医師たちはこの状態を「青緑色に濁った目」として観察し、その印象から病名が生まれました。こうして「緑内障」という言葉が残ったのです。
しかし現代の緑内障の多くは、このような劇的な見た目の変化を伴いません。黒目は普通のままで、痛みもなく、視力も保たれたまま、視野だけが静かに削られていきます。つまり、緑内障という名前は、もはや病気の本質を語ってはいないのです。
さて、白内障と緑内障はこのような病気なのですが、どちらがどちらだったか分からなくなってしまう人は少なくありません。白内障は「白くなる病気」ですので分かりやすいのですが、緑内障は「緑とは関係ない病気」でありながら、場合によっては緑っぽく見えることもあるという、たいへん覚えにくい名前の病気です。
そこで、ちょっと医学的には正しくないのですが、こう連想すると覚えやすくなるかなと思いつきました。
緑の病気
→ 銅線の緑青
→ 錆びた信号ケーブル
→ 視神経の異常。
これで緑内障が「目の中の配線が傷んでいく病気」だと、連想できるかなと考えたのですが、、、どうかな。。。
白内障が「白く濁るレンズの病気」
緑内障は「錆びたケーブルの病気」。
一旦私はこれで覚えてみます[にこやか]
ゴトー(と🐱)
もちろん、私たちはそれらがすべて間違いで、正しい答えが「18」である事を知っている。だが、彼らには彼らなりの理屈があり、一点の曇りもなくそれが正しいと確信している。彼らには何が見えているのか。彼らの世界を紐解いてみよう。
「0の世界」
0という答えを導き出すのは割と容易だ。電卓に与えられた式を打ち込んでいけば、彼が提示した「0」という答えがディスプレイに表示されるだろう。
「コンピューターが間違えるわけはない」。彼はそう信じているのだ。彼に四則演算の優先順位というルールを説くことは、もはや容易ではない。なぜなら「コンピューターはそう言っていないから」だ。
彼は熱心なコンピューターの信徒であり、機械の奴隷である。
「6の世界」
6という答えを導き出すのは、数学的には極めて難しい。この答えを出すにはいくつかの発想の飛躍を必要とする。
まず第一の飛躍は「x」である。直前の「+」の前後にはスペースがないが、「x」の前後にはある事に気づくだろうか。彼女たちはそれをおろそかにしない。「x」は乗算記号ではない。「v.s.」である。彼女たちはこの式を「6+6+6+6 と 0 ではどちらが勝っているか」と問われていると読む。
もう一点の飛躍は「+」である。6+6+6+6はいくつか。24ではない。「6が4つ」である。彼女たちは『6』という個性を決しておろそかにはしない。24にまとめるなど、個の冒涜である。6+6+6+6は、6という個性を持った4要素が集まったチームなのである。チーム名はもちろん『6』。だから『6』が勝っている。当然。聞くまでもない。
彼女たちはもはやこれを数式として見ていない。自らの信念に沿って、事象を読み解いているにすぎない。これをどう説得すれば良いのか、糸口さえつかめない。
「26の世界」
0の世界と6の世界の争いを冷ややかに見る彼。まったく、6+6+6+6+0の答えは26に決まってるではないか。間違った答え同士でぶつかり合うとは、人間とはつくづく愚かなものだ。
彼は間違っていない。
+とxが違う記号であるなどという発想は彼の常識外にある。傾きの違いで記号の意味を変えるなど、誤謬を量産する愚かな文化だ。よって、xは+が傾いているだけである。
まったく、まともに整式も書けないとはどれだけ遅れた文明なのだ。
そして6+6+6+6+0=26である。
9進数記法においては。
彼の両手には3本ずつの指があり、その3×3の身体構造ゆえに、彼の文明は9進法を常識として発展してきた。彼は地球人の無様な振る舞いをじっと観察している。
あらためて、全体の様子を俯瞰してみよう。
・「0の世界」の彼はコンピューターが間違えるわけがないとする、機械信奉者である。
・それに対し、「6の世界」の彼女たちは人間の個の尊厳を失ってはならないと、機械の支配に対する抵抗者、レジスタンスたちなのである。
・その対立を、「26の世界」の、3本指の種族が冷ややかに見守っている構図である。
「18の世界」に住む私たちは、これを笑って見ていてよいのだろうか。

ゴトー(と🐱)
当店の券売機の外国語表示モードにおける価格には、多言語対応に伴う運営コストが含まれています。
当店の運営は、原則として日本語を基準に構築されています。
これは、日本語を解さないお客様のご利用をお断りするものではありませんが、外国語での表示・案内には、翻訳対応やシステム運用等の追加コストが発生します。
これらの外国語対応に係るコストの一部については、外国語表示をご利用のお客様に価格として反映する方針としています。
・二重価格であるとのご指摘について
一般に、二重価格とは、同一条件・同一サービスでありながら、正当な理由なく価格を変更することを指します。
当店では、外国語表示・案内という追加的な運営サービスを提供しており、利用条件は日本語表示の場合と同一ではありません。
このため、本件は二重価格には該当せず、提供条件の違いを価格に反映したものです。
・観光客価格であるとのご指摘について
当店の価格設定が、外国人観光客に対する、いわゆる「ぼったくり」であるとのご指摘を受けることがあります。
しかし、価格は購入前に明示されており、利用者は内容と価格を確認した上で選択することが可能です。
強制や欺罔行為は存在せず、いわゆる「ぼったくり」には該当しません。
また、当店の価格差は、国籍や観光客であるかどうかに基づくものではなく、表示言語および提供サービスの内容に基づいて設定されています。
・人種差別であるとのご指摘について
当店の価格設定は、人種、国籍、出身地を判断基準としていません。
日本語話者であれば、国籍を問わず、日本語表示の価格が適用されます。
価格差は、言語対応という運営上の条件差に基づくものであり、差別的取扱いには該当しないと考えています。
まあ、店の建前としてはこんな感じかね
ゴトー(と🐱)
そこで、そのコメントの何が問題なのか、コメント主の理屈に合わせて「噛み砕いて」説明してみることに挑戦してみました。
まず、事実を整理しましょう。全盲であれば、確かに自力で鏡を見て仕上がりを確認することはできません。
もしここで「自分で見えないなら整える意味がない」と言うのであれば、このコメント主は、自分の後頭部の寝癖や背中の汚れ、自分からは見えないアクセサリーも「無意味」だと切り捨てる、極めてストイックな価値観の持ち主なのでしょう。もし「自分も見えない場所は一切気にしないし、ハゲても歯が抜けても放置する」という主義なら、その一貫した価値観は尊重すべきかもしれません。私の考えとは一生相容れませんが。
しかし、もし自分の身だしなみは整えるのに、義眼の仕上がりだけを「分からないじゃん」と笑うなら、それは単なる論理の破綻です。流石にそこまで幼稚ではない、としておきましょう。次に進みます。
次の論点は、「鏡がない場面ではどうやって自分の姿を確認するか」です。コメント主は多くの場合、自分の容姿を「鏡」によって確認するのでしょう。しかし、全盲の方にはその手法が使えません。鏡がない代わりに、彼らは職人の技術を信頼し、多大な手間をかけ、想像を絶する工夫をして容姿を整えます。自分では確認できないからこそ、健常者よりもずっと、「自分の姿が他人にどう映るか」に強い責任を持っているのです。
そして、「なぜ、そうするのか」です。
鏡を見ても自分では分からない。それでも整える。その不断の努力は、何のために行うのか。
おそらくコメント主に一番欠如しているのはここです。それは、対面する他者に不快感を与えないためだということ、つまり「あなたへの敬意」そのものだという視点です。
つまり、かのコメントは、「あなたのために」行われているその努力を、「分からないじゃん」の一言で切り捨てていることになるわけです。それがいかに恥ずべき不義理か、もうお分かりになるかと思うのですがいかがでしょうか。完全には理解できなくとも、「何か失礼なことを言ったらしい」ということぐらいは認識できるはずです。
ゴトー(と🐱)
先生の呼ぶ声に、たかしは窓の外から教室へと視線を戻した。黒板には、問題が提示されている。
《図》
「テーブルの高さは何cmですか?」
先生の問いに、しかし、たかしは答えない。
しばらくの沈黙の後、先生は小さくため息をついた。
「……わからないなら、わからないと言いなさい。もういいです。では代わりに、花子さん」
「はい。これはテーブルを二つ縦に重ねます。すると……」
花子が模範解答を続ける。もちろん、たかしにも答えは分かっている。「150cm」だ。しかし……花子は『分かっていない』。150cmのテーブルが持つ異常な意味を。そして、その答えを肯定してしまうことのリスクを。
おかしいと思わないのか。明らかに人間にとっての使い勝手を無視した、150cmもの高さがあるテーブルが実在するという事実を。あんなに狭い接地面積で、固定もされずに置かれているにもかかわらず、天板の端に「ウサギ」や「カメ」が載っても一切の揺らぎを見せない、奴らのオーバーテクノロジーを。
おまけに、あの「カメ」は何だ。姿形はどう見てもリクガメだが、肌も甲羅も毒々しい緑色に染まっている。ウミガメならデフォルメだとすればまだしも、リクガメであの色は明らかに異常だ。しかし、奴らはそれを異常だとは思っていない。何を考えてあのようなキメラを作り上げたのか。奴らはこの星の『種』の尊厳など、何とも思っていないのだろう。『人間』のことなど、牛や豚と大差ない扱いなのだ。
そのような相手に従順すぎることが、どれほど危険か。もちろん、露骨に反抗しすぎてもいけない。だが花子、君は少し踏み込みすぎだ……。

ゴトー(と🐱)
右を向いても左を向いても「丙午(ひのえうま)」の文字が躍る。まるで国中が急に十干十二支の専門家になったかのようだ。かくいう私自身も、1/1 0:00にそれを投稿した。ああ、したとも。付け焼き刃の八百屋お七の物語を引き連れてね。
しかし、ふと思う。
昨年、「今年は乙巳(きのとみ)だ」と口にした者が、一体どれほどいただろうかと。
あえて迷信には触れぬ者もいる。
我が社の社長も今朝、新年の訓示で、丙と午、二つの「火」が重なるエネルギーの強さを説き、社員に発破をかけた。
ですが社長。あなたは昨年の訓示で、一度でも「乙巳」の名を呼びましたか?
「丙午」。
そう置くだけで、言葉の裏にはすでに迷信が、お七の残り火が、どろりと張り付いている。理屈でコーティングしても、その熱までは隠せない。AIが言葉を紡ぎ、指先ひとつで世界と繋がる高度情報社会の最前線にいるつもりで、私たちはどこへ行こうというのか。迷信など前時代の遺物だと、アップデートされた知性で笑ってみせながら、その実、記号ひとつに踊らされ、六十年前の亡霊に怯えているのではないか。
結局のところ、我々はまだ、この六十年周期で巡り来るどろりとした血の記憶から、一歩も逃げ出せていないのかもしれない。
ゴトー(と🐱)
液晶モニタの向こうの出来事が、隣町の出来事のように聞こえる。いや言い過ぎか。足立区ですら千葉市からはまだ遠い。私にとってガザは、まだ我が街ではない。
ゴトー(と🐱)
ゴトー(と🐱)
天和の大火でお七の家は焼け出されてしまい、家族とともに正仙院に避難しましたが、そこでお七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になります。
やがて店が再建され、お七一家は寺を引き払いますが、お七の庄之介への想いは募るばかり。「どうにかすれば、また彼に逢えるのではないか……」
「……もう一度自宅が燃えれば、またあの寺で暮らせるかもしれない」
彼に会いたい一心で、お七は自宅に放火しました。火はすぐに消し止められ、ぼやにとどまったものの、お七は捕縛され、鈴ヶ森刑場で火あぶりにされました。
このお七の話は浄瑠璃や歌舞伎により広まりましたが、彼女の生まれ年が丙午(ひのえうま)とされていたことから、「丙午の年は火災が多い」「丙午生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信もまた世に浸透していきました。この迷信は昭和になっても根強く残り、前回の丙午である1966年(昭和41年)の出生率は、前年に比べて約25%も下がったといいます。
さて、その60年後となる今年、2026年(令和8年)も丙午です(私はつい先ほど知りました)。
流石にもうそんな迷信は気にする時代ではないのか、それとも、いまだ迷信は人々の心にしぶとく楔として刺さり続けているのか。
答えやいかに、正解は1年後。

ゴトー(と🐱)
日本で生活していれば、ほとんど意識することのない交通の常識である。子どものころから繰り返し教えられ、今となっては説明されずとも身体がそう動く。多くの日本人にとって、このルールは「なぜそうなのか」を考える対象ですらない。
しかし、少し視野を世界に広げてみると、この組み合わせは決して普遍的ではない。むしろ世界的に見れば、日本の交通ルールはかなり特徴的な位置にある。その理由を紐解くには、日本国内の事情だけでなく、交通ルールそのものがどのように成立してきたかという歴史に立ち返る必要がある。
そもそも、「道をすれ違うときに右か左か」という問題は、最初から決まっていたわけではない。古代から中世にかけて、道の使い方は地域ごとの慣習に委ねられ、明確な統一ルールは存在しなかった。この段階では「人」と「車」を分けて考える発想もなく、ただ人や移動体が同じ道を共有していたにすぎない。
通行方向が制度として統一され始めたのは近代に入ってからで、その契機となったのは大きく二つの背景だった。しかもこの時点では、まだ「人」と「車」の区別はない。
一つは「戦場」である。ナポレオン時代の大陸ヨーロッパにおいて、道路は兵士が移動し、敵と遭遇すれば即座に戦闘に入る場でもあった。右利きの兵士が多数を占めるなか、集団として迅速に対応しやすい配置として合理的だったのが「右側通行」だったのである。こうして右側通行は軍事的合理性を背景に制度化され、ナポレオンの征服とともに各地へ広がっていった。
もう一つは「日常・交易」の場面である。イギリスでは、道は主に民間人や商人、馬車が行き交う生活の場だった。重要だったのは戦闘への即応ではなく、衝突や無用なトラブルを避け、平和裏にすれ違うことだ。その結果として定着したのが「左側通行」である。これは、右利き同士が互いの出方を観察しながら、装備品をぶつけるリスクを抑えながら穏便に行き交える配置だった。
こうして世界には、以下の二つのスタンダードが生まれる。
・右側通行(大陸欧米方式)
・左側通行(イギリス方式)
どちらが正しいという話ではなく、前提とした社会の性格が異なっていただけである。
しかし、話はここで終わらない。これらの方式が世界に普及する過程で、各地の事情に応じたローカルルールが付け加えられていく。その決定的な条件が「道の狭さ」である。
道が狭く、人と車が近接して混在する環境では、車と同じ流れに人を乗せることが必ずしも安全とは限らない。そこで生まれたのが、「人は車とは逆方向を通行する」という対面交通の考え方である。対向車を視認できる位置に人を置くことで、危険を早く察知できるからだ。
この結果、世界の交通ルールは次の四つに整理できる。
① 車も人も右
② 車も人も左
③ 車は右、人は左
④ 車は左、人は右
日本が採用しているのは④である。日本は近代化の過程で、鉄道をイギリスから輸入し、その方式として左側通行を導入した。元々日本には江戸時代から、武士が左側に刀を差しており、すれ違う時に鞘が当たらないように左を通る習慣があったが、その武士の習慣とイギリス式の近代化が合流した流れである。しかし日本の道路は歴史的に狭く、人と車の混在が避けられなかった。特に戦後は交通事故が急増したこともあり、そのため日本では、車両のルールだけでなく、歩行者のルールについても制度として踏み込んで考える必要があったのである。安全対策の検討のなかで、対面交通の合理性が採用され、制度化したものが「人は右、車は左」である。
日本の「人は右、車は左」というルールは、偶然の産物ではない。世界の交通史を背景に、日本の過密な道路環境へ最適化させた合理的な帰結なのだ。私たちが無意識に守っているこの常識には、実は世界史の積み重ねが宿っている。そう考えると、いつもの道の見え方も、少しだけ変わってくるはずだ。
まあそういうわけで、人と車が逆サイドを進む(=車が背後からやってこない)日本では、ドライバーと目を合わせるタイミングを逃しやすく、ヒッチハイクが成立しにくいのである。
ゴトー(と🐱)
先行する海外AI企業は『毎年』数兆円を投じている。今のAI開発競争において、1兆円は「たった」一兆なのだ。
だが、血税である以上「されど一兆」。
国産AI開発の目的は、安全保障か、それとも特定企業の延命か。看板倒れに終わらせないために、私たちはその中身をきっちり見極める必要がある。

ゴトー(と🐱)
#thisisjapan

ゴトー(と🐱)
「ご覧ください。可愛いでしょう?」
国の人は穏やかに言いました。
「しかしこの動物は、いま絶滅の危機にあります。人類共通の宝です。ですから我が国では、研究所を設け、保護と繁殖の研究を続けております」
海外の人々はうなずきました。なるほど、それは尊い取り組みです。
「もしよろしければ、みなさまもこの研究にご参加ください」
「参加費はいくらですか?」
「それはお気持ちで結構です。事情はそれぞれ違いますから」
しばらくして、ある国が研究への参加に興味を示しました。
すると国の人は微笑んで言いました。
「参加団体には、この動物をお貸しすることも検討できます。展示も許可しましょう。ただし一つ条件があります。我が国と貴国の関係が良好であることです。関係が悪いと、研究も交流も進みませんから」
「なるほど」とその国は言いました。
そして心の中で、こう考えました。
――逆に言えば、この動物を借りられている限り、我が国とこの国の関係は良好だと、誰の目にも映るということだ。
その考えは、口には出されませんでした。
出されることも、望まれていませんでした。
「ちなみに」とその国は慎重に尋ねました。
「他の参加団体は、どれくらいの“お気持ち”を?」
「そうですね……だいたい、これくらいでしょうか」
示された数字を見て、その国は少し黙りました。
「……それは、まるでレンタル料のようですね」
空気が、一瞬だけ冷えました。
「そのような考えの方には、お貸しできませんなあ」
国の人は静かに言いました。
「この動物は売り物ではありません」
「失礼しました。撤回します」
その国はすぐに言いました。
「研究への参加について、改めてお話を」
「よろしい」
国の人はにこやかにうなずきました。
「では続きを」
こうして今日も、白と黒のたいへん可愛い動物は檻の中におりました。国と国の関係がどうであるとか、“参加費”がいくらであるとか、ましてやそれがレンタル料に似ているかどうかとか、そんなことはその動物はまったく気にしていません。
ただ、“お気持ち”によって守られ、与えられた竹を食べ、穏やかに一日を過ごしていました。
その姿は、とても可愛らしいものでした。
ゴトー(と🐱)
12 Days Of Christmas
ゴトー(と🐱)
そう考えると、誕生日とは、出来事そのものよりも「覚えられている」という事実に価値があるものだと言えます。誰かの記憶の中に留まり、日付として呼び戻されるというだけで、誕生日はすでに十分に祝福されているのではないでしょうか。
今日はクリスマスです。ハッピーバースデー、イエス様。
ゴトー(と🐱)
前回の考察では、日本ではパンダがエンタメ的性質として強く受け止められており、外交的性質は日常的にはほとんど意識されていない、という特徴があることを書きましたが、それを裏付けるような世論調査結果が、12月21日付の朝日新聞で報じられています。
それによると、日本にパンダがいなくなる見通しであっても、パンダ再来日に向けて政府が中国に働きかける必要は「ない」と答えた人が70%を占めたとのことでした。この結果は、日本ではパンダが「外交カード」や「友好の象徴」としてよりも、あくまで娯楽や癒やしの対象として受け止められていることを、かなり端的に示しているように思います。
パンダがいなくなること自体は惜しまれても、それを外交によってどうにかしようという発想には、必ずしも結びついていない。言い換えれば、日本においてパンダは、すでに政治的意味を強く帯びた存在ではなく、文化的・消費的な存在として完結しているとも言えそうです。
「いなければいないで仕方がない」という空気感が、数字として可視化された点は、なかなか興味深いところです。

ゴトー(と🐱)
まず、「うつ状態」と「うつ病」は別物です。
うつ状態は、気分の落ち込みややる気が出ないといった症状のこと。誰にでも一時的に起こりえます。
一方で、うつ病は、そうした状態が長く続き、生活や仕事に支障が出ている疾患(病気)です。この関係は、「風邪ぎみ(症状)」と「風邪(疾患)」みたいなものだと考えると分かりやすいです。
一時的に軽い症状が出ている段階なら、休んだり、生活リズムを整えたり、気分転換したりといった、いわば民間療法的な「予防」や「対策」が効くこともあります。
でも、もう「疾患」のレベルになっていたら話は別です。その場合は、気合や工夫でどうにかしようとせず、専門のお医者さんに診てもらって、きちんと「治療」したほうがいいです。
目安としては、『症状が長く続く』『自力ではどうにもならない』『生活や仕事が回らなくなっている』などのようなことが自覚されるようになっていたら疾患のレベルだと考えたほうがいいと思います。
精神科にかかると、「なんでこんなに気分が沈むんだろう」とか「どうしてうつ病になっちゃったんだろう」とかいう「理由」は、そんなに考えすぎなくていい、と言われることがあるかと思います。これは私もその通りだと思っています。
気分が沈むのは「病気になったから」。それ以上でもそれ以下でもない。「なんで風邪をひいたんだろう」と考えても治療に直結しないのと同じで、それより熱を下げる、安静にする、といったことを優先したほうがいい。原因を考えて次につなげるのは、元気になってからでいい。病気になったら、まずは治療と回復に専念する。
そう割り切るのがよいと、私は思います。
どうぞ、お大事に[ほほえむ]
ゴトー(と🐱)
On Off
ゴトー(と🐱)
例えば、車も、ガソリンも、プロパンガスも危険です。これらが危険ではないなどと、誰も言っていません。過去には多くの事故があり、犠牲もありました。それでも人類は、それらを手放すのではなく、事故を分析し、制度を整え、設計を改め、運用を洗練させることで、安全性を積み上げてきました。今それらが比較的安全に見えるのは、危険が消えたからではありません。危険を前提にした管理と努力が、長い時間をかけて重ねられてきた結果です。完璧だから使われているのではなく、不完全であることを承知のうえで、使い続けているのです。
特定の科学技術についても、構図は同じだと私は感じています。危険性があること自体は、関わる側ほど理解している。だからこそ、設計や制度、運用の面で安全対策が講じられ、更新され続けている。「危険ではない」と言い張るというより、「危険であることを前提に、どう扱うか」が問われているのだと思います。
それでも、「危険だから」という一言で技術そのものから距離を取ろうとする姿勢に触れると、私はどうしても…落ち着かない気持ちになるのです。それは慎重さというより、危険と向き合い、理解し、制御しようとする思考を、最初から閉じてしまっているのではないかと、そう見えるからです。
「危険だから反対だ」という言葉は、分かりやすく、安心感があるのかもしれません。ただ、私にはその言葉が、自然科学に対する人類の科学技術的敗北宣言、あるいは投降勧告のように聞こえてしまいます。未知や不確実性を前にして、理解し、手を伸ばすことをやめる。その態度は、どこか宗教的ですらあります。
危険を直視し、扱い方を考え、失敗を引き受けながら前に進む。少なくとも私が信じてきた人類の営みは、そういうものだったはずです。だからこそ、「危険だから」という言葉が思考の終点として使われる場面に出会うと、私はどうしてもその考えが受け入れがたく感じてしまうのです。
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
※中学3年生の数学で解ける問題です。
※図形が得意な人なら、暗算でも答えを導き出せると思います🙂
ゴトー(と🐱)
――映画みたいな恋、のはずなんだ……
電話に出てくれない、か。
まあいい、ノープロブレムだ。
バルコニーに出てくれば分かるだろう、
俺がどこまでやってるか。
トラック一台分、花を持ってきてるぞ!
ギターを抱えて、必死に歌ってるぞ!
…それでもダメか…
ああ、もういい!
パナマにでもいっちまえ!
なんだよもう、
ああ、もう!
パナマにでもいっちまえ!
…なあベイビー
冗談抜きでこっちに来てくれよ
俺は本気で君を愛してるんだ
君と愛を交わしたいだけなんだ
俺の愛は上物だぜ?
質には自信がある、
グラム単位ででも渡すから
受け取ってくれよ
電話に出てくれない、か、
まあいい、ノープロブレムだ。
またバルコニーだ
また花だ
また歌だ
…やっぱりダメか…
もういい!
もうパナマにでもいっちまえ!
なんだよもう、
これほど言ってもダメか
もういい、
パナマにでもいっちまえ!
毎日何マイルも走り回って稼いでる
全部君のためだけど
一番大事な贈り物を渡したいだけなんだ、
金じゃないんだよそれは
ドラッグ?そんなの意味がない
あんなもので飛べやしない
俺に翼をくれるのは
君だけだ
ジャマイカでも
チリでも
心臓は鳴る
君のためにだけ
君のためだけ
また同じことを繰り返す
電話
バルコニー
花
歌
…やっぱりダメか…
もういい、
パナマにでも行っちまえ!
キロ単位で削られた
体も
生活も
どうせ意味なんてなかったんだ
君が恋しくて
全部ひっくり返ったまま
家には帰れるけど
歩いて帰るしかない
金が何だよ…
金が…
もし君が愛をくれるなら
それだけでいい
ボニーとクライドみたいに
二人きりで
逃げるように生きたかった
――きっと
映画みたいな恋になるはずだったんだ、
映画みたいな恋に…
あーあ…
Panama
ゴトー(と🐱)

ゴトー(と🐱)
Come With Me
ゴトー(と🐱)
まず検討すべきは、そもそもその会食が「今後の男女の関係性を探る場」であるかどうかです。重要なのは、一方がそう考えているだけでは不十分で、双方が同じ認識を持っている必要があるということです。この条件に当てはまらない場合は、それぞれの場面に応じた対応を取るべきでしょう。
・営業の場面である場合は、接待をする側が支払うのが基本です。ただし、相手に接待を受けられない事情や制約がある場合には、無理に押しつけず、割り勘を受け入れる配慮も必要です。
・それ以外の私的な会食である場合は、原則として割り勘です。ただし、両者の収入に著しい差がある場合に収入の高い側が全額を負担するなど、暗黙の了解が存在するケースもあります。状況に応じて対応してください。
さて、上記の条件を整理したうえで、双方がその会食を「今後の男女の関係性を探る場」であると認識している場合について考えます。この場合の結論は明確で、「いかなる状況であっても男性が支払うべき」です。その理由を以下に述べます。
このような場面における支払い方法は、単なる金銭のやり取りにとどまらず、「男性が今後、相手との関係をどうしたいか」というメッセージ性を帯びます。端的に言えば、それは「アリ」か「ナシ」かという評価の表明です。
具体的には、次のような明確な二択として受け取られます。
・男性が全額支払う=アリ
・割り勘にする=ナシ
男性が交際を続けたいと考えているのであれば、必ず全額を支払ってください。たとえ「常に割り勘にする」という個人的なポリシーを持っていたとしても、この場面では通用しません。相手を「アリ」だと判断しているのであれば、全額支払うことでその意思を相手に伝える必要があります。割り勘にした場合、いかなる事情があろうとも、相手には「ナシ」というメッセージとして伝わります。それでも割り勘にしたいのであれば、その結果を理解した上で行ってください。そこまで貫きたい強いポリシーなのであれば、止める理由はありません。
では、実際に男性が相手の女性を「ナシ」だと判断している場合はどうでしょうか。その場合に割り勘を選ぶことは、相手に面と向かって「あなたは恋愛対象ではありません」と言い放つ行為に等しく、非常に失礼です。たとえ「ナシ」であったとしても、その場では全額を支払うのが、場の雰囲気を壊さない大人の対応です。
逆に言えば、女性が極めて無礼な振る舞いをしたなど、面と向かって「ナシだ」と明確に伝えても構わないと判断できる状況であれば、「割り勘」を選択してもよいでしょう。そこまでの覚悟がないのであれば、男女の会食において割り勘を選ぶべきではありません。
以上を踏まえると、ここまで述べてきた内容は、少なくとも一定の社会的文脈においては「常識」として共有されている行動規範だと位置づけることができます。そのため、SNSなどで時折見かける、女性が「割り勘にされた」と語る投稿は、「実に非常識な男性に遭遇した」という、比較的まっとうな目撃報告として理解できる場合が多いでしょう。
ただし例外もあります。もしその女性が、会食の場において極めて無礼な振る舞いをしていた場合、そして本人にその自覚がない場合には、この限りではありません。そのような状況で割り勘が選択されるのであれば、それは男性側が「明確な意思表示」を行った結果であり、一定の合理性を持つ行動だと解釈する余地もあります[冷や汗]
ゴトー(と🐱)
庶民の便利な足であったこのそりですが、当然ガキどもは普通には乗らず、テンションMAXでカッ飛びます。歌詞の中に出てくる“Two-forty as his speed”とは、当時の馬の速さを示す基準であるところの「1マイル(約1.6km)をどれぐらいの時間で走れるか」という数字でした。「2分40秒」というのは換算すると36km/h、当時の感覚では雪上でそり牽引でこのスピードはとんでもない俊足でした。当然すっ転びまくるわけですが、転んだって雪の上。お構い無しにまたかっ飛ばしていくのです。おめーら元気だなってなもんです。当然、親の目を盗んで一晩中走り回ります。「シャンシャンシャンシャンうるせーぞ悪ガキどもが!」ってな感じで、まさに暴走族と言っても過言ではないでしょう(私見)
そしてそんなんがモテたりするもんだからわからんもんです。曲中でも華麗な走りを決めたらファニー・ブライト嬢の心が射止められんとばかりにポンコツ馬をすっ飛ばして雪だまりに突っ込んだりしています。馬鹿ですね。
そしてそんな様子を、「まあまあ、俺たちにもあんな時代があったじゃないか、なあお前」ってなもんで村社会全体がそれを許容する空気があったのではないかと、まあ想像するわけです。度し難い。
この詩を作ったのはどっかの牧師さんで、自分の教会での感謝祭に向けて作ったと言うことですが、まあなんというかこの牧師さんも少年時代は大変面倒な子だったようで、Wikipediaから引用すると、
1832年、ジェームズは10歳でニューハンプシャー州の寄宿学校に送られた。1年の間に何度も学校を脱走した後、彼は母親に宛てた手紙の中で、学校が12月の雪の中をソリを走らせて、彼が脱走するたびに彼を探し出して連れ戻してくれたことについて書いた。彼はソリの鈴の音を聞き分けてソリが近くにいることを知るようになったため、彼を捕まえるのはますます難しくなり、これが「ジングルベル」の歌の由来となった。また、彼はソリを引いている馬を矢で射殺しようとしたこともある。1836年の最後の脱走で、ジェームズはシャーク号という捕鯨船に乗って海へ逃げた。
だそうで。まあだから陰気で説教臭い普通の坊主とは違い「おい、あの坊さん、結構話せるぞ」ってなかんじの、人間味あふれる坊さんであったと考えられます。
そんな生臭坊主が書いたジングル・ベルも今ではすっかり毒気が抜かれてしまいましたが、当時はこんなんであったに違いないと断言します。知らんけど。

ゴトー(と🐱)
1. 馬一頭立てオープンそりで、
雪の中をカッ飛んでいくぜ!
野原を越えて突き進むのさ、
笑いが止まらないぜ!
馬尾についたベルが鳴れば、
気分はスカッと最高だ!
歌って走って楽しいぜ!
そんな今夜のそりの歌だぜ!
(イエー!)
(リフ)
ベルを鳴らせ!ベルを鳴らせ!
ずーっと鳴らしまくれ!
ああ!馬一頭立てオープンそり乗りは、
超楽しいぜ!
ベルを鳴らせ!ベルを鳴らせ!
ずーっと鳴らしまくれ!
ああ!馬一頭立てオープンそり乗りは、
超楽しいぜ!
2. 昨日か一昨日な、
またひとっ走りしようと思ってたらな、
なんとファニー・ブライトちゃんが、
横に乗ってきたんだ!
でもその時の馬がやせっぽちでヒョロガリで、
不運が身の上みたいなやつでよう、
雪の吹き溜まりに突っ込みやがって、
ひっくり返っちまったんだわ!
(トホホ……)
(リフ)
3. 昨日か一昨日な、
いや、聞いてくれよ、これがよう、
またひとっ走りしてて、
またひっくり返っちまったんだけどよう、
馬一頭立てオープンそりで
通りがかったとっぽい親父がよう、
俺がひっくり返ってんのに、
バカ笑いして行っちまいやがったんだ!
(ムカつく!)
4. さあ、今年も雪の季節が来たぞ、
お前ら、若いうちにやっとけよ?
女の子連れ出して、
そりの歌を歌うんだ!
栗毛の馬を手に入れろ、
1マイル2分40秒でカッ飛ぶやつをな!
そいつをオープンそりに繋いで、
そしてパチン!と鞭を鳴らして、
アタマ取って走るんだ!
(これでモテモテ!)
Jingle Bells
ゴトー(と🐱)
・ジャイアントパンダの原産国は中国に限定されており、繁殖・所有権も中国が一元的に管理している。そのため中国は、パンダの長期貸与そのものを「外交関係が良好であることの象徴」として政治的に活用してきた。これが一般に言われる「パンダ外交」である。
・パンダは本質的に「エンタメ的性質」と「外交的性質」という二つの側面を併せ持つ存在であり、そのどちらを前面に出すか、あるいはどう両立させるかは国・地域によって大きく異なる。
・エンタメへの昇華が最も強いのは日本とアメリカである。両国では赤ちゃん誕生が連日ニュースとなり、名前募集や公開イベントで盛り上がり、グッズ販売やSNS・メディア展開も活発になるなど、パンダは完全に大衆文化のスターとして定着している。
・ただし両国には重要な違いがある。日本では、パンダの外交的性質はニュースなどで触れられることはあっても、日常的にはほぼ意識されない。「言われて思い出す程度」の位置づけであり、多くの人はそれを切り離したまま純粋な癒やしや娯楽として楽しんでいる。外交的意味を強調するのは一部の政治関心層に限られる。
・一方アメリカでは、ある程度の年齢以上になると、パンダが米中関係の象徴であることを理解したうえで楽しむのが一般的である。政治的性質を否定・忘却するのではなく、「承知したうえで消費する」態度が大人の楽しみ方として成立している。完全に政治から切り離されたエンタメとしてパンダを楽しんでいるのは、ほぼ子どもに限られる。
・東南アジア諸国でもパンダは強いエンタメ性を持つが、その背景には中国との経済関係の深さがある場合が多い。政治的意味が明示的に語られることは少ないものの、「中国との関係が良好であることへの前向きな感情」とセットで受け止められている傾向がある。
・ヨーロッパでは、パンダは主として外交シンボルとして扱われる。首脳会談の成功や経済協力の成立といった具体的成果と連動して貸与されることが多く、「対中外交がうまく進んでいることの可視的な証明」という位置づけが強い。動物園においても国家プロジェクト的な扱いがなされ、園全体の集客はパンダの有無によって大きく左右されにくい。
・最も極端な例がオーストラリアである。同国にはすでにコアラという圧倒的な国内キラーコンテンツが存在するため、パンダの相対的な存在感は低い。貸与自体は行われているものの、動物園での扱いは学術・研究寄りであり、国民的関心は限定的である。
・以上のように、同じパンダという存在であっても、その受け止められ方や位置づけは国によって大きく異なる。調べてみると、エンタメ・政治・象徴に対する文化的な距離感が各国でさまざまに違っており、その違い自体が興味深い点だと感じられる。

ゴトー(と🐱)
一般論として、国には
・「元首(国家の代表)」
と、
・「首相(行政のトップ)」
が存在します。
※呼称は国によって異なりますが、日本語ではこのように整理して表現することが多いです。
元首の呼び方は国の事情や体制によってさまざまで、『国王』、『天皇』、『皇帝』などのほか、民主的な選挙で選ばれる場合は『大統領』、社会主義体制などでは『主席』や『議長』などと呼ばれることもあります。そのまま『国家元首』という場合もありますね。
この『元首』には、
・強い政治的・行政的権限を持つ場合
と、
・象徴的存在として弱い権限しか持たない場合
の両方があります。
一方で、行政のトップは、日本語では一般に「首相」と呼ばれます。
ただし、元首が強い権限を持ち、行政トップ(首相)の役割まで兼ねている国では、「首相」という呼び方は使われず、「大統領」など元首としての呼称が優先され、そのまま使われます。
アメリカの大統領はその代表例です。
日本の場合、
・元首は天皇で、
・天皇は象徴的存在として政治的・行政的権限を持ちません。
・そのため、行政のトップである首相が別に存在します。
そして日本の首相は制度上「内閣総理大臣」が担うことになっており、日常的には「総理」と略して呼ばれている、というわけです。
ゴトー(と🐱)
第1節
厳しい冬のさなかに、凍てつく風が唸り、
大地は鉄のように硬く、水も石のようであった。
雪は降り続いていた。雪の上に雪が、
そのまた上にさらに雪が。
それは、厳しい冬のさなかの、遠い昔のこと。
---
第2節
我らの神、そのお方は天にも収まらず、
地もそのお方を支えきれない。
そのお方が降りてこられたら、
天も地も逃げ出してしまうだろう。
だがその厳しい冬のさなかには、
全能の神、イエス・キリストは、
馬小屋で満ち足りていた。
---
第3節
ケルビムが絶えず崇拝するそのお方にとっては、
胸いっぱいの母乳と、
飼い葉桶いっぱいの干し草で十分だったのだ。
天使たちがひれ伏すそのお方にとっては、
敬う牛とロバとラクダがいれば十分だったのだ。
---
第4節
天使たちと大天使たちも、
そこに集っていたのかもしれない。
ケルビムやセラフィムも、
その空を埋め尽くしていたのかもしれない。
しかしそこでそのお方を拝する事が出来たのは、
ただ聖母マリアのみであった。
彼女は清らかな至福のうちに、
口づけをもって愛しきそのお方を敬った。
---
第5節
何も持たぬ私が、
そのお方に何を捧げられるだろうか?
私が羊飼いであったなら、
子羊を持ってきたであろうに。
私が東方の博士の一人であったなら、
喜んでその務めを果たしたであろうに。
それでも、そんな私でも、
この心を捧げる事は出来る。
In the Bleak Midwinter
ゴトー(と🐱)
凍った風が、低くうめいていた。
大地は鉄のように固く、水は石のように凍りつき、
雪が降り、雪の上にさらに雪が重なっていた。
それは、遠い昔のことだ。
私たちの神は、
天にも収まりきらず、
地にも支えきれない。
その方が王として来るとき、
天も地も、前から逃げ去る。
それでも、
荒涼としたその真冬には、
家畜小屋ひとつで足りた。
全能の主なる神、
イエス・キリストにとっては。
智天使たちが昼も夜も礼拝するその方には、
母の胸に満ちる乳と、
飼い葉桶の干し草で十分だった。
天使たちがひれ伏すその方には、
牛やロバやラクダが、
そこにいるだけでよかった。
天使や大天使たちが
そこに集っていたかもしれない。
智天使や熾天使が、
空を埋め尽くしていたかもしれない。
けれど、
その方を口づけで礼拝したのは、
乙女としての喜びの中にあった母、
ただ一人だった。
では私は、
この方に何を捧げることができるのか。
こんなにも貧しい、この私は。
もし羊飼いであったなら、
子羊を連れてきただろう。
もし博士であったなら、
自分の務めを果たしただろう。
それでも、
今の私にできることは一つしかない。
この心を、
そのまま捧げることだ。
In the Bleak Midwinter
ゴトー(と🐱)
例として、「男性の育児休暇」を考えてみましょう。かつては制度自体が存在せず、「夫も妻とともに育児を担うべきだ」という社会的な主張の高まりによって、ようやく制度化が進みました。形式上は「選択できる」状態が生まれたわけです。
ところが制度開始当初、実際の職場の空気は決して自由なものではありませんでした。育児休暇を取得した男性に対しては、「男のくせにそんなことで休むのか」「仕事への責任感が足りないんじゃないか」「出世はもう諦めたのか」「周りに迷惑をかけるな」といった視線や言葉が、現実に存在していました。制度はあっても、それを選ぶことには強い心理的コストが伴っていたのです。「選択できるにもかかわらず」、実際には選びにくい状況でした。
やがて時代が進み、状況は徐々に変化していきました。育児休暇の取得は次第に称賛されるものとなり、さらには「取って当たり前」という社会的な空気へと転じていきます。ところがここで、今度は別の圧力が生まれます。「私は仕事を優先したいから育児休暇を取らない」と言いにくくなっていくのです。育児休暇を取らないことが、「家庭を大切にしていない」「時代遅れだ」「奥さんがかわいそうだ」「会社の方針に反するのか」「出世は諦めたのか」といった新たな悪評につながる場面も見られます。これもまた、「選択できるにもかかわらず」生じている圧力です。
このように、「選択できる」という状態は、私たちが思うほど単純な自由を意味しません。制度としての自由が与えられていても、そこには必ず「空気」や「評価」や「同調圧力」がまとわりつきます。形式上は自由であっても、現実には「選ばされている」ことも少なくないのです。
「選択できるという状況」は、しばしば「必ずしも自由に選べているわけではない」という、一見矛盾した状態を生み出します。前者が制度や理念のレベルの話であり、後者が現実の社会の振る舞いであるとき、このねじれは必ず生じます。私たちはそのことを、過去の歴史から、すでに何度も学んできたはずです。
ゴトー(と🐱)
日本将棋連盟では今年4月、タイトル戦に臨む女流棋士が妊娠した場合、対局の日程が出産予定日から数えて「産前6週から産後8週まで」の期間と1日でも重なれば、日程変更には応じず、その女流棋士はタイトル戦に出場できない、という規定を施行しています。福間氏の要望は、この規定が「棋士としてのキャリア構築を妨げる過剰な介入である」と感じている、という訴えだと要約できます。
確かに、将棋界に限らず一般的に考えれば、こうした大会や仕事への参加・不参加の判断は、医師の判断と本人の意思に委ねられるのが通常でしょう。主催者側が、妊娠・出産を理由に一律で参加を禁止するような規定を設ける例は、あまり多くありません。にもかかわらず、日本将棋連盟は「あえて」この規定を設けました。その意図はどこにあったのでしょうか。私はまず、そこを考えてみることが出発点であると思い、そこから調べてみました。
そして報道などを手がかりに背景を見ていくと、この規定が生まれた土壌として、女流棋士を取り巻く現在の生活実態の特殊さが浮かび上がってきました。現在の女流棋士の多くは、収入が決して安定しているとは言えず、スポンサー、タイトル、防衛、評価といった外部的な圧力が極めて強い構造の中に置かれており、そのため本来であれば休むべき状況であっても、無理をして対局に臨んでしまいかねない、という危うさをはらんだ現実があるようです。日本将棋連盟がこの規定を設けたのは、そうした構造の中で女流棋士が「自分の意思だけでは休めない」状況に追い込まれることを防ぐための、安全対策としての“盾”的な配慮であった、という見方も成り立つのではないか、と考えました。実際、この規定によって守られる女流棋士が少なからず存在することも、想像に難くありません。
一方で、福間氏のように、それは自らのキャリア形成に対する過剰な干渉だと感じる人が出てくるのも、また自然なことだと思います。では、各棋士が自由に選択できるようにすればよいのでしょうか。いいえ、それでは問題は解決しません。「出場できるなら、出るべきだ」という新たな圧力が必ず生まれます。それは結局、別の形で無理を強いる構造を温存することになり、盾としての意味を失ってしまいます。それでは意味がありません。
この問題は、「個人の自由」と「構造的な弱さから守るための制度的な保護」を、どこでどうバランスさせるのか、という非常に難しい問いを私たちに突きつけています。どちらかを完全に否定すれば、必ず誰かが傷つく。そうした性質の問題なのだと思います。このジレンマは、どうすれば解決できるのか。本当に、簡単には答えの出ない問題だと感じました。
ゴトー(と🐱)
まあわからんでもない。他人のは普通に嫌だけど、自分のは独特の愛着があるというか。
ちなみに私からしたらこいつの足のニオイは…

