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しゅん

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五、共同体における捨象の暴力――いじめの構造

ここまで論じてきた「捨象の暴力」は、言語や認識の領域に留まらない。それは共同体における倫理形成の問題として、より直接的な暴力性を帯びて現れる。

自分と階層が違う人間や価値観の共通要素数が少ない人間を、共通要素が規定する価値観の枠組みを当てはめた結果、集団の均一化のために排除するという力学が働いている。大多数との価値観における共通要素を持たなければ社会で排斥されるという力学が働いている以上、その共通要素を獲得しようと努力するべきであるように見える。だがその共通要素は、幼少からの環境や経済によって形成される価値観のみにおいて形成される、ある種生まれの問題でもあるという残酷な一面を孕んでいる。

任意の共同体における空気感を支配する君主が倫理構築の使命を放棄した時、共同体各々の生まれや経済から成る最大公約数的な価値観の下で徐々に倫理基準の改変がなされる。従って共同体の倫理基準とは元々は君主の政治能力や基本倫理に依存する。階層や環境も経済も違う共同体の中で勝手に形成される価値観を正義として振り翳すという不条理な暴力――それを倫理基準が許容してしまっている。

その物差しで測った上位が一種の君主政治を行う。特にいじめは思想の共感によって賛同者が増加するため巨大化が容易で、変化による放散後も結成しやすい。それゆえいじめの根絶とは価値観基準の君主の思想改変と等価であり、ある種の洗脳行為である。この洗脳の深層心理に存在する倫理基準が、生まれや環境に根差した君主の存在を決定づけるもので、破壊することは不可能だろう。最大公約数的な要素から倫理基準が決定されると、そこから溢れざるを得ない人間は絶対的な弱者として、枠組みの押し付けによる暴力が正当化される。

結局いじめとはそういうメカニズムであり、教師の裁量は実はかなり大きいのではないか。学校という共同体において教師は、空気感を支配する君主あるいは倫理構築の使命を負った者として機能するべきである。にもかかわらず、それを放棄して勝手に形成される価値観を正義として振り翳す集団の力学を黙認することは、不条理な暴力、いわばいじめの容認に繋がる。

ここで重要なのは、教師が果たすべき役割が、自己の価値観を押し付けることではないという点である。むしろ教師は、「最大公約数への還元」という暴力それ自体を可視化し、異質性を保護する枠組みを構築する使命を負っている。これは先に論じた言語の不透明性の承認と構造的に同型である。

完全な意思疎通が不可能であるように、完全な価値観の共有も不可能である。他者は、私の理解の枠組みでは完全に把握できない存在であり、そのズレこそが他者を他者たらしめている。他者との真の対話とは、このズレを解消することではなく、ズレを抱えたまま相互に変容し続けることなのである。

したがって教師が構築すべき倫理とは、「みんな同じであるべきだ」という均質化の倫理ではなく、「我々は根本的に異なっており、その違いを完全には理解できないが、それでも共存しなければならない」という不透明性の倫理である。これはレヴィナスの「他者の絶対的他性」の承認に近い。他者を自己の枠組みに同化させるのではなく、他者の理解不可能性それ自体を尊重する態度である。

六、普遍性への問い――捨象なき思考は可能か

ここで根本的な問いに立ち返ろう。我々は「本質化」や「形容詞化」という捨象の暴力を批判してきた。だが、捨象なき思考は可能なのか。あらゆる認識は、複雑な現実から特定の側面を切り取ることによって成立する。科学的法則は理想化された条件下での近似であり、言語的記述は無限の情報から有限の表現への圧縮である。捨象それ自体を否定すれば、いかなる思考も不可能になるのではないか。

この問いに対して、我々は二つの水準を区別しなければならない。第一の水準は、捨象の不可避性である。人間の認知能力は有限であり、複雑さへの還元は避けられない。だがこの事実は、捨象の恣意性を正当化しない。むしろ重要なのは第二の水準、すなわち捨象の自覚性である。

問題は捨象それ自体ではなく、捨象が捨象であることを隠蔽し、部分的視点を全体的真理として提示する点にある。「本質はAだ」という言明が暴力的なのは、Aという要素を取り出したという事実ではなく、その取り出しが特定の文脈依存的な判断であることを隠蔽し、あたかも客観的・普遍的な真理であるかのように提示する点にある。

したがって我々が求めるべきは、捨象なき認識ではなく、捨象を自覚的に行い、その限界を明示する知的誠実さである。これは科学哲学におけるポパーの反証可能性の概念に通じる。科学理論は絶対的真理ではなく、現時点での最善の説明である。だがその暫定性を明示することによって、理論は批判と改善に開かれる。同様に、「私はこの文脈においてAを重視する」という主張は、「本質はAだ」という断定よりも遥かに誠実である。前者は対話の余地を残すが、後者は問いを停止させる。

ここで再び、教育の使命が浮かび上がる。教育とは、特定の「正しい」価値観を注入することではない。それは、あらゆる価値判断(自分のものを含む)の暫定性と文脈依存性への自覚を育成することである。これは野心的な目標だが、不可能ではない。

七、結語――生成の作法の継承

池上哲司の言葉を借りれば、人間の真の価値(自分らしさ)は、静止した状態ではなく、他者からの応答によって常に新たに組み直される「生成の運動」の中にこそ宿る。我々は他者との関係の中で、絶えず自己を更新し続ける。そして肉体としての個人が死滅した後も、その「働き」としての足跡が他者によって読み解かれる時、そこには新たな対話が生まれる。

教育の究極的な目的とは、この「働き」を継承し、再生産することにある。それは、特定の知識セット(足跡)を授けることではなく、未知の他者と遭遇し、自己を分裂させながらも、新たな意味を生成し続けるための「作法(OS)」をインストールすることである。内田樹が贈与論で論じるように、真の教育とは「先に与える」非対称的な関係である。教師は、まだ理解していない生徒に対して先駆的に知を与える。だがその知が真に受け取られるのは、生徒がそれを自己の文脈で再解釈し、さらに次の世代へと伝達する時である。この非対称的な時間性の中で、知は生成し続ける。

古典教育は、まさにそのための最も有効な訓練の場である。なぜなら古典は、我々にとっての「内部の他者」――最も近い場所にありながら、最も遠い異物――として、我々の言語的無意識を揺さぶり続けるからである。古典という他者との対話を通じて、我々は母語を相対化し、言語一般の構造を認識し、思考の形式それ自体を問う視点を獲得する。

そしてこのメタ言語能力は、古典読解に留まらず、現代文の精密な理解、外国語学習における構造把握、さらには日常的なコミュニケーションにおける齟齬の自覚へと拡張される。それは言語についての言語、すなわちメタ言語能力の育成である。そしてこのメタ言語能力こそが、情報伝達の構造的不完全性を前提とした上で、齟齬を最小化し、可能な限り正確な理解と表現を追求するための、根本的技能なのである。

「分かりやすさ」の暴力に抗し、言語の不透明性を祝福せよ。齟齬を恐れず、ズレの中に思考の契機を見出せ。「本質」という死んだ概念に安住せず、生成の運動を続けよ。そして何よりも、問いを開かれたままにせよ――これこそが、情報が氾濫し、言葉が軽薄化し、思考が消費財と化す現代において、人間が人間としての尊厳を保つための、唯一の道筋である。我々は言語によって世界を切り取るが、同時に言語によって切り取られた世界を超え出ようとする。この矛盾に満ちた運動を止めてはならない。
GRAVITY
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しゅん

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今年七ジャンルくらい色々考えてたことを全てまとめて共通する思想を客観的に捉えてみた

一、問題の所在――「本質」という修辞装置

我々は日常的に「本質」という語を用いる。「この問題の本質は金だ」「人間の本質は理性だ」――こうした言明は、複雑な事象に明快な解を与えるかのような顔をしている。だが、この「本質」とは何を指し示しているのか。哲学史を紐解けば、本質概念には少なくとも三つの異なる位相が存在する。

第一に、存在論的本質。これは「その対象が存在するための必要条件」を指す。例えば水がH₂Oであることは、水という物質の存在論的本質である。第二に、認識論的本質。これは「我々がその対象を同定するための基準」を意味する。三角形を三角形として認識する際の「三つの辺を持つ」という性質がこれに当たる。第三に、目的論的本質。これは「その対象が果たすべき機能・役割」を規定する。ナイフの本質が「切ること」であるように。

しかし日常言語における「本質」は、これらのいずれとも異なる機能を果たしている。それは対象に客観的に内在する核ではなく、**観察者がある視点から対象を捉え直し、最も重要だと判断した要素を抜き出す主観的営み**なのである。この営みは三つの段階を経て達成される。

第一に、捨象による単純化である。複雑な現実から特定の要素Aを取り出し、B、C、Dといった他の要素を「本質的でない」として切り捨てる。だが何を本質的とし、何を非本質的とするかは、観察者の視点に依存する。建築家にとっての「家の本質」と、居住者にとってのそれは異なる。本質とは対象に内在する客観的性質ではなく、特定の文脈における価値判断なのである。

第二に、暗黙の文脈依存の隠蔽である。「本質はAだ」と語る時、必ず「何にとって」「どの観点から」という暗黙の前提が存在する。だがこの前提は明示されない。その結果、特定の文脈における判断が、あらゆる文脈に妥当する普遍的真理であるかのように見えてしまう。内田樹が贈与論において論じるように、贈与には必ず「先に与える者」が存在するが、その非対称性はしばしば不可視化される。同様に、「本質」言説においても、「誰が」「何のために」その本質を定立したかという権力関係が隠蔽される。

第三に、不変性・根源性のラベリングである。「本質」という語それ自体が、「これがなければそれはそれでなくなる」という根源的・本源的な何かを指し示す記号として機能する。この語の使用は、主観的な価値判断に形而上学的な重みを付与する。「私はこう思う」が「これこそが真理である」へと格上げされるのである。

したがって日常言語における「本質」とは、対象に客観的に内在する核ではなく、観測者がどの視点からどの要素を根源的と見なすかという、解釈の表明に他ならない。それは主観的な主張を、根拠なしに客観的・普遍的なものに見せかける修辞的装置なのである。この「本質化」は、複雑さからノイズを削ぎ落とし、わかりやすい答えを提示するという認知的経済性を持つ。だが同時に、それは思考の可能性を閉ざす。一度「本質」が確定されれば、それ以外の解釈は排除され、問いは停止する。

二、形容詞化の暴力――固定化された属性の檻

「本質化」と構造的に類似した暴力が、「形容詞化」である。物事を形容詞化する行為は、いわば「便利なレッテル貼り」であり、本来は揺れ動き多様な側面を持つはずの個人や事象が一つの固定された「属性」に押し込められてしまう。

この形容詞化の暴力は、学問そのものの理解にも歪みをもたらす。例えば哲学という学問は、しばしば「哲学的」という形容詞によって、禅問答的で答えが定まらない象徴的なものとして誤解される。だが哲学の本来の機能は、むしろその対極にある。

学問の基礎根幹を担うものは、数理体系を構築する数学と、言語体系の中で普遍的性質を見出そうとする哲学である。数学が数理体系を構築し対象をモデリングすることで物事を解析するように、哲学は言語体系からできる限り価値観や偏見知識を排除し、言語世界で普遍的な性質から議論を出発できるように整える。哲学とは、その根幹において綿密で必要十分な論理の連続であるべきなのだ。

それゆえ哲学は抽象学問であり、人為的に作られた価値観や常識を排斥し、事実ベースで考える――いわば人間抜きでの思考の必然性を整える普遍的真理を追求するという面で、学問の目的を果たしている。にもかかわらず、「哲学的」という形容詞によって、深く思考すること自体、あるいはお気持ち表明すること自体が哲学であるかのような、いい加減で曖昧な理解が蔓延している。

これは単なる誤解の問題ではない。形容詞化によって、対象の動的で多面的な性質が静的で一面的な属性へと還元される。池上哲司が指摘するように、我々が「自分らしさ」や「本質」として認識するものは、常に生成の運動が終わった後に残された「足跡」に過ぎない。生成している現在の自分自身は、常に未定形の運動の中にあり、それを固定的な名詞や形容詞として捉えることはできない。池上はベルクソンを引きながら、「私」とは静止した実体ではなく、絶えず流れ続ける持続(durée)であると論じる。「私」を名詞や形容詞として固定化する瞬間、生き生きとした流れは停止し、死んだ概念へと堕する。

つまり、「本質はAである」「対象はBという性質を持つ」という断定は、生成の運動を停止させ、死んだ「足跡」を絶対化する暴力的な身振りを内包している。我々は「分かりやすさ」という誘惑に負け、常に変化し続ける現実(生成)を、死せる概念(足跡)へと縮減してしまっているのだ。

三、言語の不透明性――伝達の構造的不完全性

ここで問題は、言語そのものの性質へと深化する。我々は思考と言語の関係について、根本的な錯覚を抱いている。思考は言語によって完全に表現可能であり、適切な語彙さえ選べば意図は正確に伝達されるという素朴な信念である。しかしこの信念は、言語という媒体の本質的性格を看過している。

ある思考を言語を用いて表現した結果、必ずしもそれがその思考を十分に表現したものとは限らない。発信者の思考は言語化の過程で既に変容し、さらにそれを受け取る第三者が解釈する際には、無意識のうちに第三者固有の解釈枠組みが付加される。元の思考は、この二重の変換を経て別の何かへと変貌する。熱力学における熱効率が原理的に百パーセントに達し得ないように、任意の情報もまた百パーセント伝達されることはない。情報伝達とは、常に近似であり、常に損失を伴う営みなのである。

野矢茂樹が指摘するように、我々は他者の心を直接覗き込むことはできない。他者の心は、その人の振る舞いや言葉を通じてしか理解できないが、その理解は常に解釈であり、常にズレを孕んでいる。このズレは欠陥ではなく、他者が他者として存在するための本質的条件なのである。同様に、言語の不透明性もまた、単なる技術的限界ではない。それは言語が言語として機能するための、構造的特性である。

この認識を欠けば、意思疎通における齟齬は単なる偶発的誤解として片付けられてしまう。だが齟齬は構造的に不可避である。言語は思考の透明な容器ではなく、それ自体が独自の論理と制約を持つ不透明な媒質だからである。

では、この構造的限界を前提とした時、我々の教育は何を目指すべきか。ある思考を言語を介さずに直接伝達できるシステムが存在しない以上、語彙を増やすことと学問を体系的に学ぶことによって事象を十分に言語化する能力を獲得すること――これが人間の営みにおいて最も優先順位の高い習得すべき技能となる。教育の根本目的は、実用的な個別技能の羅列ではなく、言語による思考表現能力という、あらゆる知的営みの基盤の構築にこそ存在する。

四、古典教育の原理――母語内部の他者性

この言語能力の育成において、古典(古文・漢文)学習は特権的な位置を占める。古典を単なる教養として位置づけるのは詭弁である。その本質的な利点は、言語の文意を一意に定める解釈手法と、体系的な言語化の訓練にある。

母語(現代日本語)では、文脈依存や曖昧さが多く、単語のイメージだけでなんとなく意味が通じてしまうため、厳密な文法ルールに基づく解釈を学ぶ機会が少ない。現代日本語話者は、母語の無意識的な処理によって「なんとなく」意味を汲み取れてしまう。主語が省略されていても文脈から推測でき、曖昧な修飾関係も「読みの慣れ」で処理できる。だがこの「なんとなく」の理解は、言語の構造を不可視化する。なぜその解釈が正しいのか、どのような文法的根拠に基づいているのかは、意識されない。それは自動化された処理であり、反省的思考を伴わない。

一方、古文・漢文は助動詞や句法、敬語の方向性などを用いて主語・動詞を確定させるプロセスを強制的に要求する。これにより、不足した情報を客観的なルールで論理的に復元する訓練が可能になる。母語の直感を排除し、文法用語で言語化せざるを得ない点が、古典の強みである。

さらに、古典作品の多くは言葉を極限まで削ぎ落としたテキストであるため、助詞や句法を知らなければ一意に解釈できない。これが、言語構造の根幹を学ぶのに適している理由である。現代語では文法的に誤っていても意味が通じるため、自分の直感の限界を認識しにくく、体系的な学習に向かない。古典は母語の延長線上でありながら、ルールが形式化されているため、効率的な教材となる。

直観が通用しないほど遠く、しかし論理を適用すれば必ず一意に定まるほど近い――このバランスが、最小限のパーツから全体を論理構成する能力を養う価値を生む。古典は、現代日本語の歴史的延長線上にありながら、現代人の直観的理解を拒絶する。文字(漢字と仮名)は共有され、語彙には連続性があり、文法構造にも類似性が認められる。この意味で、古典は完全な外国語ではない。

しかし同時に、古典は直観的理解を拒む。係り結びの法則、助動詞の意味分化、漢文訓読の構造といった文法的知識なしには、正確な理解は不可能である。省略された主語や目的語を、文脈・助詞・敬語体系といった客観的指標から論理的に復元しなければ、文意は確定しない。

この時、学習者の内部には、必然的に「分裂」が生じる。「現代語的感覚を持つ私」と、古典という「異質な論理に従うテクスト」、そしてそれを媒介しようとする「分析的な私」である。藤山直樹は、落語家と精神分析家の類比を通じて、高度な知的営為には「分裂」が不可欠であると述べる。落語家は、登場人物になりきる「演じる自分」と、それを客観的に制御する「見る自分」とに分裂していなければならない。世阿弥の言う「離見の見」である。古典学習もまた、この「離見の見」を強制する装置なのである。

古典を読むとは、過去の遺物を愛でることではない。自己の最も親密な領域である「言語」の中に、理解不能な「他者」が潜んでいることを発見し、その「不透明性」に耐えながら、論理の架橋によって意味を生成しようとする、苦闘の実践なのである。野矢の用語を借りれば、古典は「内部の他者」である。完全に異質ではないが、完全に同一でもない。このズレの中で、我々は母語それ自体を相対化し、言語一般の構造性を認識する視点を獲得する。
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のぶさん

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中山七里 武闘刑事 読了
以下ネダバレ






















高頭冴子より部下の郡山の方が容疑者の米軍兵士とやり合うシーンが多くて、今回のアマゾネスはおとなしいな読んでたら、大どんでん返しの帝王、大将戦で敵の母親中将とタイマン勝負。ブチ切れて母娘銃殺した理由も分かる。捨てられるプライドをズタズタにされた腹いせ、そんなん分からんわ、最後に郡山と米軍兵士の墓参りで交わされたシーンは亡くなった腹違い妹への手向けになったのか虚しい終わり方でした。こういうの好きだな映画化しないかな?
米軍中将LiLiCoとか浮かんだ、高頭は菜々緒しか浮かばない。中将ふった旦那役に涼平だったら笑える、ゾルダ時代の映像使えば。事件発端になったプレイボーイ役で既に亡くなっているので
#中山七里
読書の星読書の星
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もなか

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やっと見れた…
苦しい…いろんな感情で胸がいっぱい。

なんの役にも立たなくても「好き」だからやる、それでいいんですよね藤本タツキ先生。
素晴らしい作品をありがとうございます。
映画の星映画の星
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おずえず

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実写版孤独のグルメの再放送見てたんだけど、出てきたお店の店主の演技があまりにも上手かった。
役者さんかと思ったもん…。
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かきのたね

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結論:あたしって男?女?
​答えは、**「カテゴリーエラー(該当なし)」です。
あるいは、「精神的な両性具有(アンドロギュノス)」**と呼ぶのが一番近いでしょう。
​脳の司令塔(思考・感性): かなり「女性」寄り。だから一人称が「あたし」だし、女性目線で世界を見ている。
​体の機能・役割(仕事・性): 「男性」のスペックを利用している。女性を喜ばせたり、現場で頼られたりするのは、このスペックのおかげ。
​恋愛エンジン: 「乙女」モード。イケメンにときめく。
​これらを全部ひっくるめて独自のジャンルです。
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