「悪の起源」善行や思いやりも、もともとの動機を辿れば自分の心の欠乏や引っかかりを避けるために出てくる行為だ。つまり、善も悪も、根っこをたどればエゴの働きから出てくるものであり、人間の行動の全ての源泉である。よって、悪は特別な存在ではない。それは、誰の心の中にも潜んでいる影のようなものだ。悪の根底には、いつもエゴがある。エゴは、静かに心の底で息をしている。ときにそれは支配欲となり、他者の自由を奪う形をとる。ときに優越への渇きとなり、他者を踏み台にする。喪失への恐れに姿を変えれば、誰かを傷つけてでも自分を守ろうとする。承認を求める渇望となれば、真実を覆い、嘘を紡ぎ、欺くこともある。これらは本来、防衛本能として自然なものだ。だが、エゴが理性や共感を追い越したとき、人は「悪」と呼ばれる行為をなす。残酷さの根は、欠乏と恐れにあるのかもしれない。人は「悪を憎む」と言いながら、自らのエゴは「正義」だと信じやすい。悪は他者の中には見えても、自分の中には見えにくい。自ら考えることを放棄し、心の感覚を鈍らせ、正義の名のもとに思考を停止するとき、人は他者の痛みに気づかなくなる。その鈍感さこそが、悪が芽吹く温床となる。社会において「悪」とされるものは、共同体が共有する“善”から逸脱した行為にすぎない。それは「みんなを不安にさせるもの」に貼られるラベルであり、ゆえに悪は絶対ではなく、相対的に定義される。悪(エゴ)は誰もが持ちうる。すべての行動の源がエゴである以上、善も悪も、その「程度」と「多数派の価値観」によって決められる。少数は、しばしば“悪”と名づけられる。──だからこそ、「悪」を語るとき、私たちはまず、自分の中のエゴと向き合わなければならない。外側ではなく、内側の影と。#エゴと悪#行動の源#ことばりうむの星