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あさ
止まったまま、走っている
夕方の熊本市内は、昼と夜のあいだで、ゆっくりと息をつく時間だった。空はまだ明るいのに、信号の色が一つ変わるだけで、街の表情が少しずつ夜に近づいていく。
タクシーは交差点の手前で止まり、エンジンの振動だけが足元から伝わってくる。フロントガラス越しに見える空は、春の手前の色をしていた。冬の名残がまだ残っているのに、どこかで確実に季節が動いている。
和弘は、ハンドルに両手を置いたまま、ぼんやりと空を見ていた。
大阪で生まれた。進学を機に東京へ出て、そのまま就職した。三十代で長野に移り住み、結婚した。四十歳で離婚した。
それらはすべて、あとから並べれば「経歴」になるが、一つひとつの場面では、ただ「そうなった」という感覚しかなかった。
選んだというより、流れてきた。
それでも、ここでタクシーを運転している。
「ここで降りた」熊本に来たとき、そう思っただけだった。理由はない。ただ、それ以上進む気がしなかった。
後部座席のドアが開き、年配の女性が乗り込んできた。小柄で、背筋が伸びている。白髪はきれいに整えられ、コートの襟元もきちんとしていた。
「行き先は、どうされますか」
いつもの確認の声だった。
女性は少し考えてから、困ったように笑った。
「決めてないの。……こういうの、困る?」
和弘はミラー越しに女性を見る。困っている様子はない。試すようでも、甘えるようでもない。
「いえ、大丈夫です」
そう答え、メーターを入れて車を出す。
洗車したばかりのボンネットに、いつの間にか花びらが一枚、張りついていた。走り出すと、風にあおられて、しぶとく残っている。
「熊本は長いの?」女性が聞いた。
「四年くらいです」
「じゃあ、もう慣れたでしょう」
和弘は、少しだけ間を置いた。
「……まだ、そんな感じはしません」
自分でも、正直な答えだと思った。
女性は窓の外を見たまま、静かに言った。
「私もね、ここに来たとき、同じこと思ったの」
ミラー越しに見る横顔は、穏やかだった。
「お仕事の都合ですか」
「いいえ。逃げてきたの」
冗談めいた言い方だったが、声は軽くなかった。
「若い頃は、教師をしてたの。国語」
和弘は、少しだけ驚いた。
「言葉を教える仕事よ」
「……そうなんですね」
「でもね」
女性は、少し笑った。
「自分の大事なことほど、言葉にできなかった」
信号が変わり、タクシーは静かに進む。窓の隙間から入る風は、まだ冷たいが、冬ほど刺さらなかった。
「結婚して、子どももいたわ」
「……そうなんですね」
「でも、“いい母親”でいることに夢中で、自分が何をしたいか、考えないふりをしてた」
言葉は淡々としていたが、長い時間を生きてきた人の重みがあった。
熊本城が見えてきたとき、女性が言った。
「ここ、少し止めてくれる?」
車を寄せ、エンジンを切る。城の下の道には、掃ききれなかった花びらが、ところどころ残っている。
夕暮れの城は、長い時間そこに立ち続けてきたものの顔をしていた。
「ここね」
女性は城を見上げたまま言った。
「昔、“また今度”って言って、来なかった場所なの」
しばらく沈黙が続く。
「“あとで”って、便利な言葉よね」
「……」
「やさしくて、残酷で」
そして、和弘の方を見ずに続けた。
「あなた、やさしい人ね。でも……やさしいまま、逃げてきたでしょう?」
胸の奥が、少しだけ締まる。
考える前に、言葉が出た。
「……逃げたいうより、どこにも行かへんかっただけです」
一瞬だけ、大阪の響きが混じった。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
女性は振り返らず、静かに頷いた。
「……そう。それ、一番しんどいやつね」
それ以上、何も言わなかった。
病院に着くと、女性は丁寧に頭を下げた。
「今日は、ありがとう。ずいぶん、話しちゃったわね」
「……いえ」
ドアが閉まり、女性の背中が遠ざかる。
その夜、川沿いで車を止めた。エンジンを切ると、街の音が少しだけ遠くなる。
スマートフォンを開くと、古い留守電が残っている。
再生すると、若い頃の自分の声が言った。
「……また連絡します」
それだけだった。
和弘は、小さく息を吐き、削除を押した。
確認画面。迷いはなかった。
留守電は、音もなく消えた。
翌朝。空は思ったより早く明るくなっていた。
和弘は運転席に座り、メーターを入れる前に、一度だけスマートフォンを伏せた。
昨夜、留守電を削除したときの、あの静けさが、まだ残っている。
何かを決めたというより、決めなかったことを、確かめただけの感触。
営業灯を点ける。
駅前で、若い男が手を挙げた。リュックを背負い、周囲を一度見回してから、後部座席に乗り込む。
「行き先は?」
「……まだ決めてなくて」
男の声は、少しだけ硬かった。
「そうですか」
タクシーが動き出す。朝の街は、昨日より少しだけ輪郭がはっきりしている。
信号を二つ過ぎたところで、和弘のほうから、ふと思いついたように口を開いた。
「……この街、どうですか?」
男は一瞬、言葉に詰まった。
「え?」
「住む人の目から見て、です」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか、はっきりとは分からなかった。ただ、昨夜、削除したあの声が、まだ胸のどこかに引っかかっていた。
男は、窓の外を見た。
「……まだ、よく分からないです」
「昨日、来たばっかりなので」
和弘は、ハンドルに指をかけたまま、小さく息を吐いた。
「ですよね」
信号が赤になる。街が、一度止まる。
その静けさの中で、和弘は、ほとんど独り言のように言った。
「分からんままでも、止まっても、走っても、どっちでも大丈夫な街やと思います」
それは、街の話のようで、昨夜の自分への返事のようでもあった。
信号が青に変わる。
タクシーが動き出したとき、和弘は、もう一度だけ、言葉を外に出した。
「行き先が決まってなくても、走りながら決めても、ええと思うんです」
男は何も言わなかった。
その沈黙が、昨夜、留守電が消えたあとの静けさと、よく似ている気がした。
和弘は、前を見た。
タクシーは、いつもの速度で走っている。
#短編小説
#創作
#行き先未定

あさ
行き先未定
熊本に来たのは、逃げたからだと思っていた。
そう言えば、自分でも納得できたし、説明も簡単だった。
仕事を辞めて、実家にも戻らず、知り合いもいない街に来た。
理由としては、それで十分な気がした。
駅前でタクシーに乗った。
「行き先は?」
運転手の声は落ち着いていて、感情が少なかった。
「……まだ決めてなくて」
言ったあと、少し後悔した。
こんな答えをする年齢じゃない。
「そうですか」
それだけ言って、車は動き出した。
街は、思っていたより普通だった。
派手でもなく、寂しすぎることもない。
知らない場所に来たという実感は、まだ薄い。
信号をいくつか過ぎたところで、
運転手がふと思いついたように聞いた。
「……この街、どうですか?」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「え?」
「住む人の目から見て、です」
まだ住んでもいない街を、どう見ろというんだろう。
昨日来たばかりだ。
「……まだ、よく分からないです」
「昨日、来たばっかりなので」
「ですよね」
それで会話は終わった。
信号で車が止まる。
朝の光が、フロントガラスいっぱいに広がる。
赤から青に変わる直前、運転手が、ほとんど独り言みたいに言った。
「行き先が決まってなくても、
走りながら決めても、
ええと思うんです」
返事をするべきだったのかもしれない。
でも、その言葉は質問じゃない気がした。
信号が青に変わり、
タクシーは何事もなかったように走り出した。
降りたのは、駅近くのビジネスホテルだった。
「ありがとうございました」
ドアを閉めると、タクシーはもうこちらを見ていなかった。
その言葉だけが、妙に残った。
部屋を決めたのは、その日の午後だった。
「とりあえず」で選んだワンルーム。
駅から少し離れていて、家賃も安い。
窓から見えるのは、隣の建物の壁だけだった。
仮のつもりだった。
ここは通過点で、長くいる場所じゃない。
そう思っていた。
最初の数日は、落ち着かなかった。
スーパーの場所も分からず、コンビニで済ませることが多かった。
夜は静かすぎて、自分の足音がやけに大きく聞こえた。
仕事は、想像していたより普通だった。
忙しすぎず、暇すぎず。
深く関わることも、期待されることもない。
昼休み、同じくらいの年の男が、いつも近くに座っていた。
天気の話をした。
それだけだった。
次の日も、同じ席だった。
名前を覚えたのは、もっと後だ。
休みの日は、目的もなく街を歩いた。
川沿いの道。
古い商店街。
昼間から開いている喫茶店。
どこも「悪くない」と思った。
でも、「いい」と言い切れるほどでもなかった。
春は、いつの間にか進んでいた。
朝、窓を開けると、空気が少し軽くなっている。
上着を着るか迷って、そのまま出る日が増えた。
ある日、洗濯物を干しながら気づいた。
ハンガーの位置を、無意識に調整している。
風向きも、日当たりも、もう考えなくても分かる。
別の日、昼休みに声をかけられた。
「今日、弁当?」
「いや、外」
「じゃ、一緒に行きません?」
断る理由はなかった。
その日から、昼はだいたい一緒になった。
話す内容は、どうでもいいことばかりだ。
仕事の愚痴。
昔住んでいた街。
最近閉店した店の話。
約束はしない。
でも、次の日も、また隣に座る。
何年後かの春。
朝、目が覚めると、窓の外がやけに明るかった。
時計を見ると、平日のいつもの時間だ。
特別な日じゃない。
窓を開けると、冷たさの抜けた風が入ってくる。
冬の匂いは、もうなかった。
上着を手に取って、少し考えてから、そのまま置いた。
ここで何年目の春なのかを、正確に言えないことに気づいた。
数えようと思えば数えられる。
でも、もう数えなくなっていた。
駅までの道を歩く。
信号の待ち時間も、横断歩道の癖も、
身体が先に覚えている。
ふと、あの朝のタクシーを思い出す。
行き先を聞かれて、答えられなかった自分。
運転手は、行き先が決まっていなくてもいい、
そんな意味のことを言っていた。
正確な言葉は、もう思い出せない。
でも、走りながら決めてもいい、という感触だけは残っている。
昼休み「今日はどこ行く?」と聞かれる。
自然に「いつものところでいい」と答える。
それを聞いて、ここにいると思った。
行き先は、まだ決めていない。
この先どうするかも、はっきりしていない。
それでも、ここで生活している。
仮のつもりで始めた日々は、気づいたら、
全部、自分のものになっていた。
足元を見る。
ちゃんと、地面に立っている。
逃げたかどうかは、もうどうでもよかった。
少なくとも、ここにいるのは、自分が選び続けた結果だ。
行き先は、まだ未定だ。
でも、止まったままではなかった。
#短編小説
#創作
#行き先未定

あさ
言わなかった言葉
行き先を告げなかったのは、理由があったわけじゃない。ただ、そのまま車に乗っていたかった。
熊本城の下で車を止めたとき、夕方の光が石垣に斜めに当たっていた。冬よりも少しだけ、光の角度がやわらいでいる。観光地としては静かな時間で、人もまばらだった。
タクシーの中は、少しだけ暖かい。暖房を切っても、指先がかじかまない程度の空気だった。
運転席の男は、さっきから必要以上のことを話さない。こちらが話せば聞き、黙れば黙ったままでいる。その距離感が、妙に心地よかった。
昔、国語教師をしていた。
若い頃は、言葉を扱う仕事が好きだった。文章を読むことも、書くことも、誰かに説明することも。言葉を知っていれば、たいていのことは何とかなると思っていた。
でも、自分の人生のことだけは、どうしても言葉にできなかった。
結婚したのも、子どもを産んだのも、特別な決意があったわけじゃない。「そういうものだ」と思っていたからだ。
いい母親でいようとした。
それが悪いことだとは、今でも思っていない。ただ、その役割に夢中になるあまり、自分がどこに立っているのかを考えないふりをしてきた。
「あとで」
「落ち着いたら」
「そのうち」
便利な言葉は、生活を回すのに役立つ。角が立たず、誰も傷つかない。でも、そのぶん、何かが確実に先延ばしにされる。
熊本城を見上げながら、ふと思った。石垣の隙間に、冬を越えた草の色が見えた。
ここは、「また今度」と言って来なかった場所だ。
運転席の横顔を見る。
やさしそうで、どこか距離を取っている顔。人の話を聞くことに慣れていて、自分の話をする準備ができていない顔。
少しだけ、昔の自分に似ていると思った。
「“あとで”って、便利な言葉よね」
思わず、口に出た。
彼は何も言わず、前を見たまま、ゆっくりと頷いた。
「やさしくて、残酷で」
それは、説明じゃなかった。確認だった。
ほんとうは、続けるつもりはなかった。でも、言葉は勝手に次を連れてくる。
「あなた、やさしい人ね」
そこまで言って、少し迷った。
言っていいかどうか、ではない。言ってしまったら、この時間が変わってしまう気がした。
それでも、言った。
「でも……やさしいまま、逃げてきたでしょう?」
言葉が車内に落ちたあと、思っていたよりも音がしなかった。
責めたつもりはなかった。ましてや、答えを求めたわけでもない。
ただ、言わずに通り過ぎることだけは、できなかった。
一瞬、胸の奥がひやりとした。後悔というほど強い感情ではない。でも、もう戻れない場所を一つ越えた感覚があった。
この人は、この言葉を受け取っても、すぐには何も変えないだろう。
それが分かっていたからこそ、言ってしまったのだと思う。
沈黙が続く。
その沈黙に、救われている自分がいることに、少しだけ驚いた。
返事は、少し遅れて返ってきた。
「……逃げたいうより、どこにも行かへんかっただけです」
一瞬、関西の響きが混じった。そのせいで、言葉が妙に生々しく聞こえた。
逃げたのではない。
行かなかった。
その違いが、胸に残った。
それは、私が長いあいだ、選び続けてきた生き方でもあった。
本当は、何か言うべきだったのかもしれない。
「もう十分、立ち止まったと思う」
「これ以上、自分を責めなくていい」
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
でも、それは渡してはいけない言葉だと思った。
この人は、誰かに許されて動く人じゃない。自分で気づかなければ、前に進めない人だ。
だから、言わなかった。
熊本城を背にして車が動き出す。窓の外の空気が、わずかに軽くなった気がした。景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
病院に着いたとき、私は丁寧に頭を下げた。
「今日は、ありがとう。ずいぶん、話しちゃったわね」
彼は短く、「いえ」とだけ言った。
車を降りて、数歩歩いてから振り返ると、タクシーはもういなかった。
その夜、家に戻ってからも、あの横顔が何度か浮かんだ。
言わなかった言葉は、胸の奥に残ったままだ。
でも、不思議と後悔はなかった。
あれは、今の私のための沈黙でもあった。
言葉は、使わないことで守れることもある。
それを、やっと分かる年齢になっただけだ。
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