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チャーハン大王

チャーハン大王

江戸--東京~浮世之夢噺  ♯ 12

☆錦糸町のおいてけ堀奇譚、東京の夜鷹たち、
大震災で走る佐多稲子、アヅマとサツマ

 大横川は、本所業平橋から、真南へ洲崎弁天まで下って、そこで油堀川と合流しているが、この川が江戸の東外縁にあたっていた。大横川は埋め立てられるため水を抜かれ、すでに水無川に干上がっている。現在の錦糸町駅北口のロッテ会館のあたりまで、大横川から東へ食い込んでいた堀を錦糸堀といい、すでに埋め立てられ駐車場になっているが(1985年昭和60年当時)、ここが本所七不思議の一つおいてけ堀であった。魚を釣って帰りかけると「置いてけ置いてけ」と声がし、二、三匹の魚を置いていけばよし、そうでないと帰路道がわからなくなり、いつまでたっても帰れないという。おいてけ堀と呼ばれる堀はほかに亀戸にもあって、いずれにせよ人気のない寂しく辺鄙な所だったことを示している。
おいてけ堀の南、堅川と大横川の交わる北辻橋に、時をつげる時の鐘がおかれていたのでこの橋を撞木橋(しゅもくばし)と呼んだ。この橋から大横川に沿った西側一帯は、北へ入江花町、三笠町、吉田町、吉岡町、石原町と下級の売笑宿が長屋のごとくつらなり、安女郎群れる夜鷹の巣窟でもあった。南北の『四谷怪談』序幕、卓悦が表向き灸治の看板をかかげた売笑婦宿・地獄宿の大年増のお大は「鳥(と)やにつきし(悪疾にかかった)、毛のぬけたる女、髪を嶋田に結、白は(お歯黒は公娼に限られていた)にて眉毛のなきこしらへ」で客が「にはとりの化物ぢやア」とびっくりする代物だが、このお大は夜鷹の有名な巣窟吉田町(現在の石原町四丁目)の夜鷹がモデルであろうといわれる。ここには「四十から老に入らぬ吉田町」といわれた大年増がいて、墨で眉を作り、白髪を染めて島田に結うのを常としていた。局見世(つぼねみせ)に出ない夜鷹は薬研堀、柳原土手、筋違門、駿河台、護持院ヶ原、飯田橋、京橋比丘尼橋などに出稼ぎに出た。ムシロを持ち、頬被りをした夜鷹は、掘割や土手の下あたりに出没したのだが、それはそうした場所が誰の所有地でもない境界であり、無縁の公界領域だったからである。
葛飾北斎が宝暦十年(1760)九月三日、この世にはいずり出したのは、本所割下水(錦糸堀に続いていく)、現在の亀沢町あたりだった。北斎の母は、赤穂浪士の討入の折、吉良上野介の家臣として奮戦して果てた小林平八郎の孫娘であると伝えられ、割下水は回向院東の本所松坂町の吉良邸とは目と鼻の先である。回向院は明暦の大火のとき、ここで橋がなかったため多数の死者が出たことから、両国橋を架橋し、無縁仏をとむらうため諸宗山無縁寺として建てられた。両国橋の両国とは武蔵国と下総国であり、二国を結ぶ橋であり、まさしく国境の橋なのである。回向院が無縁寺であったことも相乗し、また橋=端であり、国境であるという幾重の境界性によって、"川向う"の両国広小路は、角力興行が年二回行なわれた無縁のアジール、回向院を中心に、因果物・いかさま・好色の見世物小屋はもとより、金猫・銀猫と呼ばれる回向院門前私娼窟をもあわせ持った江戸最大の広場となった。象🐘がはじめて見世物となったのもここであり、向こう大川端のカーニバル的祝祭空間は江戸期を通して怪しい輝きを放ち続けた。両国橋の向こうの柳橋、日本橋、そして江戸城の方から両国方面を見ると、砂村隠亡堀というあの世の闇が最深部に控え、夜鷹や窮民の巣窟をバックにした、権力の埒外の祝祭空間が異様なほどの輝きで人心を魅きつけている光景が見えていたわけで、それは境界の外だから可能であった。

「小雨が霧のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へさぶが泣きながら渡っていた」のを栄二が後から追っていった。その両国橋のたもとで二人はおのぶに出会うのだ。橋は、「君の名は」(無論、アニメではなく昭和29年に一世風靡した方)のずっと以前から、人と人との出会いと別れの場だったのである。回向院向いの本所小泉町に育ち、回向院隣の幼稚園、本所元町の江東小、柳原町の府立三中(両国高校)と進んだ芥川龍之介は、本所七不思議におびえる少年だったが、芥川の彼岸と此岸を行き来する小説世界は、この本所両国で形成されたのである。
大正十二年九月一日、日本橋丸善に勤めていた佐多稲子は、大震災のすさまじい騒然の街を、丸善から日本橋を渡って本石町へ出、和泉橋から三筋町、厩橋から吾妻橋へ、千住の方から逃げてきた人でごった返す橋ぎわで、「空は地上から沸き起こる煙で黒雲を捲き上げてゐた」が、その煙にさえぎられぬうちに、と彼女は「吾妻橋の上を走った」。稲子の家は橋を渡って左手、向島小梅町にあって、大川の土手下の「かたかたとどぶ板を踏んでゆく路地裏にあつた」。路地の真中に勝手から流す水を引き受ける溝が掘られて、そこにどぶ板を渡していたから、そんな風情になったのである。
この小梅、須崎、押上と中之郷の四村を総称して昔は牛島と呼んでいた。小梅町と源森川をへだてた向い側が中之郷瓦町で、ここは大川の向うの今戸の対岸となるわけだが、今戸焼に対応して瓦焼き職人が住んでいてこの名が起きた。吾妻橋を渡り切ったところが中之郷元町で、ここは乞食薮と呼ばれ、乞食の長(おさ)金助が住居していた。この中之郷の曳舟川沿い(現在の押上二丁目)にも同潤会中之郷アパートが大正十四年に百六戸小ぢんまりと建てられた。押上は今や東京スカイツリーなんぞという現代のバベルの塔よろしく聳え立ってはいて、従ってドブ板を渡した裏町風情も一掃されつつあるが、昭和の風情を辛うじて残すものが、町中華のみとなったのは何とも寂しい限りである。
ところで「吾妻と書いてあづまと読む。東もあづまであって漢字にこだわらずに、ことばとしてのアヅマとは何か、そのことばの本体はツマであってものの端(ハシ)、大和から見て辺境をさす語であってエミシの住む東の辺境をアヅマ、クマソの住む西の辺境をサツマ(薩摩)と呼び、辺境の境を越える時の親しい者との別離の情が端(ツマ)を妻へ転じさせたと考えられる」と西郷信綱氏は『古代の声』で述べている。そのあづまの名をとった吾嬬村は押上の東で、現在は京島、文花、八広、東墨田となっているが、京島地区だけはほとんど戦災をまぬかれたため、まだたくさんの路地を持っていて、文花などといういかにも上っ面だけの団地的空間とは異質な空間を残している。




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つき

つき

川端康成

散りぬるを 

読了#川端康成 #日本文学
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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

岸辺🏝の100冊 # 9-2

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☆『武蔵野』 国木田独歩 其の2

武蔵野は全九項からなるが、ページ数にすると文庫本で僅か24頁に満たない短編である。冒頭に太平記の一文を引用しているが埼玉中西部で育ち、長く在した私の目を惹き付けて余りある。源平小手指原の戦で久米川宿云々の文言は冒頭から新田義貞の鎌倉攻めの主舞台となったかの地を偲ぶよすがに充分事足りる。私は19の時に狭山茶の主産地に近い実家を後に所沢で一人暮らしを始めた。その頃は丁度スタジオジブリのとなりのトトロが話題となっており、猫バスのシーンに出てくる七国山はまるで実在する八国山だったし、主人公のさつきとめいのお母さんが入院していたのはその八国山の裾野に点在する東京白十字病院などのサナトリウムであるのは明白だった。それによりお母さんは結核なんだなとすぐに判る。
そこからほど近い東村山は志村けんの地元で余りにも有名だ。八国山から数キロ離れた村山貯水池は西武の創始者堤康次郎が作った人工湖だが、そのすぐ脇にあるトトロの森は武蔵野を愛する宮崎駿が存亡の危機に瀕する武蔵野の雑木林を保全する為に余念が無かったと聞く。そう云えば独歩の武蔵野にこんな一文がある。第八項の冒頭部、…小金井堤上の散歩に引き続き、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。… 小金井の流れのごとき、その一である…。
これは玉川上水のことであろう。その小金井に宮崎駿らがスタジオジブリの本拠地を置いたのも武蔵野という地域への愛昔の念があるからだと推察する。国木田独歩の『武蔵野』はこうして後続の文化人らに大きな影響を与えたのだと思う。
トトロはそうした古き良き武蔵野を守る守護神なのである。

つづく…。
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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

岸辺🏝️の100冊  ♯ 9-3

#読書の星 #東京 #武蔵野 #日本文学
 

 ☆『武蔵野』 国木田独歩著

  武蔵野の第4項に…武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面のようで、むしろ高台のところどころが低く窪んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。…
  とある。年末に書いた本稿♯ 7で紹介した『昭和二十年東京地図』の中で西井一夫は…独歩の住まいからは渋谷方面の林や丘や水車が一目に眺められた。現在渋谷駅のある窪地はまさしく四方から坂が集まってくる谷底様である。この谷底で練兵場(現在の代々木公園)下を流れてくる宇田川と原宿の方から来る渋谷川が落合い、これが天現寺、古川橋、一ノ橋、金杉橋と流れて竹芝桟橋脇で東京湾に流れ込んでいる。…と解説してくれている。また同書の中で東京大空襲の翌日、作家山田風太郎の若き日を綴っていて、独歩の武蔵野との共通点を見出せる。…大空襲で友人の安否を確かめんと山田風太郎は新宿から本郷まで歩く。「何と云う凄さであろう!まさしく、満目荒涼である。…ついこのあいだまで丘とも知らなかった丘が、坂とも気づかなかった坂が、道灌以前の地形をありありと描いて」いた。野暮な恨みをのべるより、風太郎は冷静になろうとする。…独歩の武蔵野を書いた明治30年から47年を経過した東京はそれなりに発展していたがアメリカの行った空襲で道灌以前の地形が判るほど東京は荒涼としていたのである。独歩は武蔵野の落葉樹林を見て満目黄葉と表現したが、風太郎は満目荒涼とした。それは自然の織りなす美しさとは対極の人為的にもたらされた望まざる風景だった。
 独歩は武蔵野を巧みに端的に表現している。
 …一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場処…田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語…大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落合って、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。…
 明治の半ばにしてすでに武蔵野の正しい定義を主張した独歩は文壇の寵児となったが、肺結核を患い晩年は茅ヶ崎で療養中に死んだ。36歳の若さだった。独歩の玄孫に現在俳優として活躍中の中島歩、モデルの国木田彩良がいる。
                    完
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梶井基次郎「檸檬(レモン)」

青年は「得体の知れない不吉な塊」に心を囚われている。毎日、友だちの家を転々としながら、ただ街を当てどもなく歩いている

この気の重さは借金のせいだろうか、心の病だろうか、それとも将来に対する不安からくるものだろうか?

ある日、青年は店前で清々しい「檸檬」を見かけ、それに強く惹かれていく…

三島由紀夫が「日本文学史上最高の短編小説」と称賛したことでも有名です

梶井基次郎は他にも「櫻の樹の下には」や「冬の日」など数々の傑作を残し僅か31歳でこの世を去りました

#読書 #短編小説 #日本文学
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マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

岸辺の100冊 # 9

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☆『武蔵野』 国木田独歩

最初は雑誌連載だったらしい。國民之友へ2回連載だった。明治31年1898年1月と2月号である。因みに最初のタイトルは『今の武蔵野』だった。
その後明治34年3月に初版発行された独歩の第一創作集『武蔵野』の巻頭を飾った。この第一創作集をそのまま文庫化したのが岩波文庫で第一刷が昭和14年1939年2月で、最初の連載から41年が経過していた。私は岩波文庫の昭和59年3月の第48刷を所持している。
これは優れた東京随筆であり、武蔵野の自然に身を委ねる独歩の多少ディフォルメも混ざりつつ然し、どの地方にもない自然と人工物の調和は唯一無二の風景を作り出すと、武蔵野の地を評する。今から127年前の独歩のそぞろ歩いた武蔵野の特徴は、実は今から40年以上前にが私が学生時代を過ごした埼玉中西部の武蔵野独特の特徴は、独歩が描いた風景と余り変わりがない。その云い方には齟齬があるが風景は無論変わっていただろうが、武蔵野という土地の特徴はさして変わりがない。それらは、独歩のテンポの良い文体によって活写される武蔵野の長閑さ、とか行き当たりばったりで細道を行くといきなり農家の庭先に出る、とかそうした道行のある種のスリル感は筆舌に尽くし難い小散歩の興趣を見い出せる。
この文章を書いた頃の独歩は旧渋谷公会堂とNHKに挟まれた坂を下る途中に住んでいて、そこからは渋谷の林や丘や水車が一目に眺められた。
その住居の隣は牛を飼っている牛乳屋であり、当時渋谷の搾乳場は61箇所に及んだという。茅屋に住んだ独歩は、その武蔵野の楢の類の落葉林の沈黙と凩の叫びの中に身を沈めて、恋人と別れた傷心に浸っていた。
この本の中で独歩は武蔵野の範疇を定義して、…東京の南北は…先ず雑司ヶ谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などという駅がどんなに趣味が多いか……。
正に私が6才から34才迄の大半を過ごした地域がスッポリ収まる寸法だ。私は所沢の北隣に位置する狭山という地域で幼少期から青年期に掛けて過ごしたが、雑木林が点在していたものだ。

つづく…。
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日本文学の試験が難しすぎる!!源氏物語詳しい人教えてー!!😭😭😭😭#源氏物語 #日本文学 #テスト#試験 #大学生
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「村上さんのところ」村上春樹

僕が学んだのは「言葉って本当に怖い」ということです。ペンは剣よりも強いとよく言いますが、言葉は実際にナイフのように人を切り裂きます

SNSが発達したせいで、抜き身の刃物のような言葉が言語空間をひゅんひゅん飛び交っています。これは本当にとんでもないことです

あなたが傷ついたり、イヤになったりする気持ちはよくわかります。インターネットは便利なツールですが、僕らはとんでもないものを解き放ってしまったような気がします

しかしもう後戻りはできないので、状況にあわせて自分を護っていくしかありません。SNSとの「適性距離」をうまく測ってください

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「風の歌を聴け」について

『人はもちろん孤独です。僕も孤独です。あなたも孤独です。人と人が理解しあうことなんて不可能です』

『「風の歌を聴け」にディスクジョッキーが出てきますよね。彼が「僕は君たちが好きだ」というとき、彼は本気でそう言っているんです。そういうことって、何かの役に立つと僕は思うんです。そう思いませんか?』

これは春樹さんがデビュー当時からずっと僕たちに伝え続けていることです

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春樹さんとの出会い

友達の部屋の段ボールで作った本棚の中に、春樹さんの初期3部作が並んでいた

「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」
「羊をめぐる冒険」

「これ、面白いのか?」
「ああ、面白いよ。そうそう、中にお前とそっくりな男が出てくる。“鼠”って奴だ」

彼がコンビニのバイトに出掛けたあと、僕は部屋にひとり残って「風の歌を聴け」を読んだ

驚いた。それまで日本の小説といえば乱歩と太宰しか読んでなかったから、こんな作家がいたんだとショックだった

独特な比喩と全編に散りばめられたアフォリズム。そしてクールなセリフまわし。もちろん当時はヴォネガットもブローティガンも知らなかった

初めて「自分たちの作家なんだ」と思える人に出会えたような気がした。それから春樹さんの作品は小説でもエッセイでも全て集めて何度も繰り返し読んでいる

彼が僕たちと同じ空気を吸って、近い目の高さで世界を見てるんだと思うとなんだかホッとする。春樹さんと同じ時代に生きられて本当に良かったと思う

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村上春樹「1Q84」Book2〈7月月〉

第8章 天吾
「そろそろ猫たちがやってくる時刻だ」

僕は誰かを嫌ったり、憎んだり
恨んだりして生きていくことに疲れたんです

誰をも愛せないで生きていくことにも
疲れました

僕には一人の友達もいない
ただの一人もです

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「ノルウェイの森」村上春樹

彼らは言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する学生を罵倒し、あるいは吊るし上げた

でも彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いんだ。そんな連中が大学解体を叫んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするんだ

おい、キズキ、ここはひどい世界だよ。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ

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『羊をめぐる冒険』村上春樹

弱さというのは体の中で腐っていくものなんだ。まるで壊疽みたいにさ

俺は10代の半ばからずっとそれを感じ続けていたんだよ。自分の中で何かが確実に腐っていくというのが、またそれを感じ続けるというのがどういうことか、君にはわかるか?

俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や
そんなものが好きなんだ

どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや…わからないよ

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「海辺のカフカ」のナカタさんが西武新宿線の「野方」に住んでいます

「野方って雰囲気いいですよね。僕も大学生の頃、半年くらい隣の都立家政に住んでいました」

「駅から歩いて15分くらいのところ。まわりは絵に書いたような大根畑で、土地が黒く、じとっと湿っていて、冬がとても寒かった」

「暗い三畳間で、女の子とあまりうまくいってなくて、生きているのがつくづく嫌になって引っ越しました」

この女の子というのは「ノルウェイの森」の直子のモデルになった女性だと思います

「都立家政駅」の改札を出て、右へ北に向かって歩くと「新青梅街道」に出て道路を渡ると「中村南」になります。たぶん春樹さんはこの辺りに住んでいたのでしょう。偶然ですが僕もこの近くのアパートに住んでいました

因みに駅を反対に左へ進むと「高円寺」に出ます。その途中に「中野区第四中学 (現·明和中学校)」があるのですが、1969年、春樹さんが都立家政に住んでいた頃、ミュージシャンの佐野元春さんが通っていました

春樹さん20歳、佐野さん13歳。もしかして2人はすれ違っていたかもしれませんね🤔

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「風の歌を聴け」村上春樹
「ラブクラフト全集 1」H·P·ラブクラフト
「黒の碑」ロバート·E·ハワード
「母なる夜」カート·ヴォネガット·JR
「アメリカの鱒釣り」R·ブローディガン

「風の歌を聴け」はリチャード·ブローディガンやカート·ヴォネガット·JRの文体に影響を受けていることは春樹さん自身も認めています
例の「やれやれ」とか「そういうものだ」なんていうのがそうですね

また作中登場する架空の作家「デレク·ハートフィールド」はラブクラフトやハワードがモデルだと言われています

1983年「幻想文学 3 」のインタビューです

「ラヴクラフトやハワードの”ウィアード・テイルズ”一派というのは大好きで、だいたい漏らさず読んでますね。ラヴクラフトの場合はまず文体ね。あのメチャクチャな文体(笑)あれ好きですねえ。めったにお目にかかれない文体でしょう」

「それと世界ね。ラヴクラフト自身の、ひとつの系統だった世界を作っちゃってますよね。完結した世界性というもの、そのふたつだと思うんですよ。”クトゥルー神話大系”とかね。ああいうの面白いし、なんとなく書いてみたくなりますよ」村上春樹

奥様の陽子さんも熱狂的な「ラヴクラフティアン」だそうです。でも最近の春樹さんは大御所感が出てしまって、こういう話を封印してしま
ったようです。幻想文学界隈の人間として何だか寂しいですね

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江戸--東京~浮世之夢噺  ♯ 18

☆ 早稲田を愛した二人の文人、決闘高田馬場の小倉屋、落合う二つの川氾濫夢ノ如ク


芭蕉庵焼失と同じ、五月二十五日の空襲で荷風も再び焼け出される。六月二日、荷風は罹災民専用大阪行列車で東京を離れた。小雨降る日のさみしい離京であった。

「予大正十年の秋亡友左団次の一行と共に京師に遊びてより後一たびも東海道の風景に接せしことなし、感慨無量筆にしがたし。」

以後荷風は明石、岡山と疎開生活を続け、敗戦後の九月に熱海に移り、翌年市川に引越し、そこで八十歳まで生き、胃潰瘍の吐血によって心臓発作で倒れ、翌日やってきた手伝い婦が発見するまで誰にも知られなったという、やはり孤絶した死を迎えている。自分の吐いた血反吐にまみれてうつぶせに死んでいた。
願って庭を見せてもらった芭蕉庵に、明治期に早稲田方面から写した芭蕉庵の写真があった。早稲田に大隈重信らによって東京専門学校が創立されたのは明治十五年のことで、十四年の政変で大隈が参議を罷免され、下野し立憲改進党を結成したことと相関している。政府は国会開設意見書を提出した大隈を罷免することと、明治二十三年に国会を開設する旨の詔書とを同じ日に発表している。そのため十五年には各政党が続々と結成され、自由党板垣退助が岐阜で襲われ「板垣死すとも自由は死せず」の有名な芝居がかったセリフを吐いた(死にはしなかったのだが)のもこの年である。政権の側に確実にこの時には意識されているカウンターバランスの感覚は、列強の中での弱者の"立国"という政治の感覚がまだ活きていること、在野にもそれに応じていく活力ある精神があることを見せている。
芭蕉庵から早稲田大学までわずか三百メートル足らずの間は、そのころはびっしり田圃が関口台を囲んでいて、まるで奈良のようなのんびりとした風景は、青々とした早稲の田そのものであった。
神田川をのぞむ高田の台地に江戸初期に馬場が設けられ、家康が大坂進攻の際に軍馬をそろえたというが、穴八幡に奉納するための流鏑馬(やぶさめ)は家光の頃からこの馬場で行なわれるようになった(今も甘泉公園横の水稲荷神社の参道で行われる)。穴八幡は牛込の総鎮守で横穴古墳があることから高田八幡宮の里称となった。牛込御門から神楽坂を抜ける今の早稲田通りが当時の穴八幡宮参詣道である。元禄七年(1694年)堀部安兵衛が叔父甥の盟約結びし菅野六郎左衛門の決闘に助太刀のため、すそをからげて走り通し、さあて立ち合いの前のひと呼吸、酒をひしゃくで一飲みのどを潤しブォーッと柄に霧吹きかけていざ一戦、その酒屋小倉屋はいまも馬場下夏目坂の角にある。
夏目漱石が生まれたのがこの夏目坂で、江戸町奉行支配下の町方名主だった漱石の父、夏目小兵衛直克が明治二年、牛込馬場下横町、牛込供養町、牛込誓閑寺門前などを合わせてできた町に牛込喜久井町と名付け、この坂を夏目坂と名付けた。夏目家の定紋が井桁に菊だったので、それを町名としたのだ。漱石は終の住処を早稲田に求め、喜久井町の隣町の早稲田南町に漱石山房を構え、ここで死んだ。
穴八幡のある馬場下の南側一帯は戸山ヶ原と呼ばれ、練兵場、陸軍戸山学校、陸軍病院、近衛騎兵聯隊など軍の施設があった。その焼跡地に昭和二十二年に住宅営団の復興住宅(165戸)が建ち、二十四年に米軍放出住宅として水洗式二戸建ワンルームの戸山ハイツ(1,053戸)が建った。この木造平屋の住居が建ち並び、そこここを畑にしていた戦後的戸山ヶ原の光景は、四十三年に移転が開始されても、つい最近まで残っていた。現在は都営の高層アパートというバラック・ビルが建ち並び、しかも一部はまだ造成中だったり、放置された空地もあったりで、何とも言えぬ奇観を呈している。

現在の西武新宿線は、かつては高田馬場駅を発駅とする西武農業鉄道村山線で、池袋線も同武蔵野線と呼ばれていた。村山線は杉並区井草から流れ出す妙正寺川とつかず離れずで走っている。この妙正寺川北側の落合丘陵は南向きの陽当たりのよい台地で、縄文遺跡が発掘されているから、古代より住み心地のよい土地だったことは確かで、遺跡近くの茅葺きの社殿をもつ御霊神社は室町期からの御備射(おびしゃ)祭を伝えている。中落合(当時は下落合)の聖母病院と落合第一小の間の三角地帯は、昭和初期に箱根土地会社(西武不動産の前身)が目白文化村として分譲したところだが(大正十年に佐伯祐三が結婚して住み移った新居はこの中落合で、昭和元年彼は下落合風景三十点を連作している)、目白駅の西側に妙正寺川に沿って広がる、下落合から西落合にかけての丘陵地帯は、広い屋敷地を持った静かな屋敷町で残っている。下落合の御禁止(おとめ)山公園は、名の通り江戸期将軍の鷹狩場として一般の出入が禁止されていたところで、明治以降戦後まで落合秘境といわれていた。この御禁止山公園の開発が計画された折、地方(じかた)の有志が目白の当時田中角栄蔵相に陳情し、角さんは「きちんとしましょう」と約して、ここは自然公園となったという。この御禁止山の西に東長谷寺=薬王院があり、その下で妙正寺川と神田川が合流している。その合流地を落合と呼ぶのはごく自然であり、この辺りの低地は洪水が多かった。二つの川にはさまれた形の上落合には荼毘所が家綱の時代からあり、今も落合火葬場がある。戦後ここに汚水処理場がつくられることになった時、住民が思い描いたのは、同様に火葬場と汚水処理場が併置されている三河島であったろう。その場所的記憶が、この地が昔より境界域であったことを裏付けている。
妙正寺川は、井草から天沼、鷺宮、野方、新井、沼袋、江古田、西落合、中井を経て神田川に落合う。井(水の湧く所、江は井と同)と沼のつく地がズラリと並んでいる。哲学堂の近くの江古田と沼袋と松ヶ丘の接している所、そこで分流が妙正寺川に合流しているのだが、ここに江古田公園があって石碑が建てられている。

「我帝都ハ其近郊ニ向ツテ年々膨張シ関東大震災後特ニ著シキモノアリ 而(しか)モ此無統制ナル異常発展ヲ自然ニ放置センカ悔ヲ千載ニ胎スルモノアルヲ看取セル我江古田ノ有志ハ夙(つと)ニ土地整理ノ要ヲ認メテ之ニ備フル所アリ
偶々(たまたま)昭和七年十月斯地(このち)大東京市ニ編入セラルルヤコレガ実施ノ機運熟シ即チ区域ヲ妙正寺川ノ本支流ヲ中心トス……。」

昭和七年の大東京市編入にともなってこの江古田村は中野区となり、八年に土地区画整理組合が組織されている。この折の妙正寺川の改修工事によって「氾濫夢ノ如ク」なったと、十七年に建てられたこの整理碑は記している。落合は東京市と東京府との境であった。




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