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リピ散歩

中山道編 vol.20 ①

約10ヶ月振りの中山道旅も、長野県のだいぶ奥まで進んだのでスタート地点まで車で4時間かかるんすよね‥
来たついでに2泊くらいして距離を稼ぎたいところですが、まぁ何とか頑張ります。

そんなわけで今回は藪原駅から木曽福島駅まで進みました。途中に階段あり、猿あり、草道あり、廃国道ありの大冒険。ほっそい木曽川とともに進み南宮神社では豪快な滝でマイナスイオンを浴び、木曽義仲館跡の旗挙神社では850年前の義仲の気持ちになり魂を高揚させました。

②へ続く‥

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #藪原宿 #宮ノ越宿
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ねぎソフト🍦笑

味は‥自分で確かめてね😋

#リピ散歩
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#深谷宿
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日曜日の旅は中山道最難関にして五街道最難関の和田峠を越えました。今年4月に新和田トンネル有料道路が無料化され、更に先週には霧ヶ峰や美ヶ原高原を結ぶビーナスラインが冬季閉鎖となったことで旧道を走る車はほとんどいません。このため山中は静まり返り、川の音と枯れ葉を踏む私の足音しか聞こえない静寂の空間となりました。
もちろん熊さんは出没しますので熊鈴の代わりにハンドベルを振っての山中でしたが、途中出会った軽トラのおじさんの一言にビビリました。

『今日は鉄砲打ちが入ってるから気をつけてくださいね』

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #和田峠
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リピ散歩【中山道編 塩尻〜木曽平沢】前半

①平出の一里塚
日本橋から数えて59里目の一里塚です

②平出遺跡
ここでは縄文〜平安まで約290以上の遺跡が発掘されています。日本三大遺跡のひとつとされています

③塩尻市では葡萄の栽培が盛んに行われワインの街としても有名です

④肘懸松
松の名前の由来には2つの説があります。ひとつは後北条氏討伐の帰りに細川幽斎が下記のような句を詠んだからという説と、京への上洛の折に徳川秀忠が肘を掛けて休んだからという説です
※細川幽斎(藤孝)句碑
細川幽斎は大河ドラマにも登場する有名な武将で、嫡男は関ヶ原の合戦で活躍した細川忠興、忠興の正室は明智光秀の娘ガラシャです。
『肘懸けて しばし憩える松陰に たもと涼しく 通う河風』

⑤⑥北国西街道追分と道標
1857年建立の常夜燈と道標が建っています。長野県内を走る北国街道には追分宿から分かれる北国街道(善光寺街道)と先馬宿から分かれる北国西街道があり、2つの北国街道は長野市篠ノ井の地で合流します

⑦邂逅(あふた)の清水
源平合戦前半の主役と言っても過言でない木曽義仲は幼くして父を失い木曽の有力者である中原兼遠のもと兼遠の息子兼平とともに育てられました。その後兼平は今井の地に領地を得て今井兼平と名乗り、以仁王の令旨を経て義仲が挙兵した際にこの地で義仲と再開(邂逅)したそうです。義仲の馬がだいぶ疲弊していたので兼平がこの清水で洗ってやるとたちまち元気を取り戻したそうで、これ以降『義仲四天王』の1人として今井兼平が従軍して行きます

⑧本山宿は〝そば切り発祥の地〟とされています。蕎麦の伝来は縄文時代まで遡るとされ室町時代以前の蕎麦は粒を粥にしたり蕎麦がきにして食べていたようです。そば切りの存在が確認できる最も古い文献は1574年に中山道須原宿の定勝寺で振舞ったという記述がありますが、1706年の風俗文選という書物には『信濃国本山宿よりあまねく国々に‥』との記述があるそうです

⑨斜交屋敷
本山宿には5軒の旅籠跡があります。これらの建物は敵の侵入時に身を隠す目的で街道に対して斜めに建てられこのことから斜交屋敷と呼ばれ、このうち手前の3軒(川口屋、池田屋、若松屋)は江戸時代の造りを留めていることから国の有形文化財に指定されています

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #塩尻市
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リピ散歩👟 旅のおまけ編✨

今回も沢山の一期一会に逢いました[大笑い]

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #美ヶ原 #飯テロ
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中山道編 vol.20 ③

一里塚跡、草の坂道、ノスタルジックな構造物などを見ながら街道を進み福島宿へと入ります。福島宿には江戸時代の四大関所の一つ『福島の関所』があり大いに発展しました。宿の入口には大きな冠木門、宿場内に入ると高札場跡、江戸時代の風景を元にした趣のある小路が目を楽しませてくれます。尚、旅の最後に木曽義仲の遺髪が納められている興禅寺を訪れました。墓前では義仲館でいただいたシールを見せ旅の無事を感謝し帰路についた次第です。
次回は来年かな‥次の旅に向け今から気持ちがウズウズしますね👟

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #福島宿 #木曽義仲
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中山道編 vol.20 ②

宮ノ越宿へと入っていきます

巴渕
伝説によると巴淵には龍神が住んでおり、龍神は木曽義仲の養父中原兼遠の娘に姿を変えると幼少期から巴淵で水泳などの鍛錬を行い、後に巴御前と名を変え義仲の覇業を支えたとされています

義仲館
2021年にニューリアルオープンした義仲館では木曽義仲や巴御前の活躍を中心に沢山の現代アーティストたちがそれぞれの感覚で義仲や巴を描いています。歴史館というより美術館に近い感じですね

徳音寺
本堂の左手には義仲の霊廟が、本堂と霊廟との間の階段を上ると義仲の供養塔をはじめ、巴御前、小枝御前、義仲四天王とされる樋口兼光や今井兼平の墓などがあります

宮ノ越宿本陣跡
村上本陣では明治13年に明治天皇も小休止するなど由緒ある本陣だったようですが3年後の明治16年に起きた火災により客殿以外の建物が焼失してしまったそうです。しかし木曽11宿で唯一現存する客殿として平成28年から一般公開されています

中山道中間地点
ここは江戸日本橋、京都三条大橋、どちらからも268km 地点となります。20回目にしてようやく半分進みました

木曽福島のマンホール
木曽福島へ近づくと福島の関所が描かれたマンホールが現れます

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #藪原宿 #宮ノ越宿
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リピ散歩【塩尻〜木曽平沢】後編👟

①是より南木曽路碑
桜沢橋を渡り50m ほど進むと『是より南木曽路』と書かれた昭和15年建立の石碑があります。江戸時代、桜沢橋を境に松本藩領と尾張藩領とに分かれていたことから桜沢橋は別名『境橋』と呼ばれていました。ここから落合の石畳前までは〝木曽路〟と呼ばれ島崎藤村『夜明け前』の一説で有名です

『木曽路はすべて山の中である・・』

②若神子の一里塚
擁壁の上に若神子の一里塚が見えます。一里塚の位置から考えると現在の国道がだいぶ下がって造られたことが分かります。日本橋から数えて62里目の一里塚です

③崖上の中山道
両側に山々が迫る中を中央西線、国道、中山道が伸びています

④贄川の関所跡
元々は木曽防衛のため1334年に関所が建てられました。1334年と言えば建武の新政が行われた年なので後醍醐天皇が何らかの意図を持って造らせたと思われます。その後、安土桃山時代に入ると豊臣秀吉により木曽木材の監視のために関所を強化し、関ヶ原の戦い後に福島関所が造られると贄川関所はその副関として出女の監視に務めたそうです。残念ながら明治2年に建物は壊されてしまいその跡には中央西線が引かれてしまいましたが、この地に関所があったことを後世に伝えたいという目的で1976年に少し離れたこの場所に復元されたそうです。寛永年間の設計図を元に忠実に再現したそうで、一階には考古館も併設し明治初期の中山道の写真なども数多く展示されています

⑤贄川のトチの木
樹齢約1000年、高さが約33mあるそうです。1000年前は平安時代なので、その後の木曽義仲や武田信玄もこのトチの木を見たかもしれませんね。現在では県の天然記念物に指定されているそうです

⑥いよいよ名古屋の看板が登場しましたね

⑦街道と石塔とコスモスが栄えます

⑧漆器の街平沢宿
1655〜1729年まで平沢番所が置かれ荷物の取り締まりを行っていました。鳥居峠を越える直前の奈良井宿で旅籠が満室の場合には奈良井宿にほど近いこの平沢宿が使われたと思います。また平沢は漆器の街としても有名で現在でも多くの漆器店が軒を連ねており国の重要伝統的建造物群保存地区となっています

⑨木曽平沢駅から帰ります

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #塩尻市
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👟リピ散歩 中山道編『15日目②』

蚯蚓の碑からの続きです。

①碑のすぐ先を右折して5分ほど山を登ると‥
②プレハブの中に蚯蚓神社があります。以前、この村で大雨が続いて大水が発生した際に大きな蚯蚓が大量死するという現象が起きました。その後村にコレラやチフスが発生したため、村人たちはこの伝染病が蚯蚓の祟りだと思ったようで山に社を建て蚯蚓を祀ったそうです。
③床にはコケシのような顔をした顔蚯蚓大権現🪱がお昼寝をしていました(笑)全国唯一であろう蚯蚓神社をこれからも大切にしてもらいたいなと思いました。

④立場茶屋跡
旅人や商人たちの中には何十キロもの重い荷物を背負って街道を歩く者もいましたが、休憩のたびに荷を降ろしてしまうと出発時に立ち上がれなくなることがあったそうです。そこで彼らは街道を歩く際に使っている杖を地面と荷物の間に立て、荷の重さを軽減して休憩を取ったそうです。このことから宿場〟でもなく間の宿でもない簡易的な休憩所を【立場】と呼ぶようになりました。
休憩する際に『一本立てる』と言う語源はここからきているようです🧐

⑤三千僧接待碑(1777年建立)
江戸時代、この辺りに慈眼寺という寺があり、この先にある中山道随一の難所『和田峠』を旅する僧たちのため、宿や食事・傷の手当てなどを行っていたそうです。初めは千人を目標に掲げ碑に〝一〟と彫ったものの、思った以上に早く千人を越えてしまったため〝一〟の上に新たに二本線を彫ったようです(笑)

⑥和田宿やその近辺は湧水が豊富です。

⑦招き猫の石塔だニャン。

⑧獅子舞が描かれた石塔もありました。

⑨若宮八幡宮
敷地内に和田城主『大井信定』親子・矢ヶ崎城代『羽田幸清』の墓碑があります。大井氏は信濃国の守護代を務める家格でしたが戦国時代に入り武田信玄による信濃侵攻で没落、この大井信定親子も1553年に起こった【矢ヶ崎合戦】の際に亡くなりました。また羽田幸清は大井家の家老とされており、同じくこの戦いで命を落としたと思われます。首はこの地に埋葬され1693年に墓碑が建立されたそうです。
尚、この羽田幸清という武将は第80代総理大臣である『羽田孜』氏の御先祖様だそうです。省エネスーツの方ですね。

#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #和田宿 #長和町
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