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kagenaカゲナ
第5話「未来に残されたもの」
洞窟の奥、崩れかけた戦場の中心で——
時を裂く光 ― 未来を掴む手
クロノは、小さくまばたきをした。
瞳の奥に、まだ冷たい異物感が残っている。
魔王から渡された、
一度きりの時間停止用コンタクトレンズ。
もう役目は終わっているのに、
その痕だけが、眼の奥に焼き付いていた。
(……止めたのは、私じゃない。
私は、見るだけ……)
彼女は静かに息を吸う。
時間はもう、止められない。
だからこそ――
ここからは、“未来”で戦う。
少し離れた場所で、天使の少年が膝をついていた。
金色の羽がかすかに揺れ、息は荒い。
彼の胸の奥で光が乱れ、力の流れが不安定になっている。
世界が静まり、クロノの視界には無数の“未来の枝”が広がっていた。
一秒先も、一分先も、すでに彼女の視界の内にある。
それだけじゃない。
一時間後、二時間後――
さらに三つの未来を同時に走らせながら、戦いの行方を解析している。
短い未来と、長い未来。
反応の遅れた未来、奇跡的に噛み合う未来。
それらが、彼女の中で同時進行で分岐し、同時に崩れ、同時に再構築されていた
(……この先に、勝ち筋はある……どこかに……)
戦場が、再び動き出す。
洞窟の天井はところどころ崩れ、
鍾乳石は何本も砕け落ちていた。
地面は無数の衝撃でえぐられ、
もはや平らな場所はほとんど残っていない。
湿った洞窟の空気は、
血と、焼けた魔力の匂いで息苦しいほど重くなっていた。
ここで、時間の流れの中で、
三時間近く戦い続けていた。
それなのに——
怪物の闇だけは、
まるで疲れることなく、
まだなお、力を増していた。
「……僕は、もう……少し無理だ。ミレイナ、クレアナ……頼む。」
そう言い残し、彼は壁にもたれかかる。
動けば、羽が砕ける――それほど限界だった。
それでも、視線だけは仲間たちから外さない。
ミレイナが短くうなずき、布を握りしめた。
「任せて。クロノ、誘導をお願い!」
「……任せて。」
クレアナの指先が閃き、光の陣を描く。
クロノは静かに息を吸い、意識を集中させた。
無数の未来が頭の中に重なり合う。
ひとつの未来ではない。
右に避けた世界、左に跳んだ世界、誰かが遅れた世界、誰かが倒れた世界。
何通りもの可能性を、戦いながら同時に演算する。
敵の動き、仲間の配置、光と影の流れ――
それぞれの未来で“どう崩れるか”を見極めながら、最短の生存ルートを探していた。
「ミレイナ、右に! 三秒後、地面を裂く!」
「了解!」
ミレイナの布が走り、闇の刃を受け流す。
「クレアナ、左の式を重ねて! 次の波がくる!」
「任せて!」
クレアナの光陣が展開し、防御の壁が衝撃波を弾き返す。
クロノも指先を震わせ、闇の粒子で補助線を引くように空間を縫った。
未来の“線”を、現実に引き寄せるために。
クロノの瞳に、時間の流れがいくつも走る。
(あと一時間……敵は再生が止まる。その時を――)
だが、闇の動きが変わった。
まるで、彼女の“視線”そのものを感じ取ったかのように。
影が、未来の軌道を裏切るようにねじれ、あり得たはずの流れを破壊してくる。
(……読まれてる……? 未来じゃない、“私”を……?)
「……ッ、動きが早い!」
黒い腕のような衝撃がクロノを襲い、身体が宙を舞った。
岩壁に叩きつけられ、息が詰まる。
それでも、彼女の瞳は“未来”を見失わなかった。
視界の端で、時間の線がかろうじて繋がっている。
(……まだ見える……次に狙われるのは――ミレイナ!)
「ミレイナ、下! 今すぐ避けて!」
叫びと同時に、地面を裂く闇の刃が通り過ぎる。
「助かった……クロノ、ありがとう!」
「大丈夫、まだ……動ける……!」
立ち上がる足は震えていた。
血が滲む手を押さえながら、それでも彼女は前を見た。
敵の動きを読み続け、未来を追い続ける。
勝ち筋は、まだ消えていない。
(もう少し……あと少しで、見つけられる……)
「クロノ、無理しないで! ここは私たちが!」
「ううん……見える限りは、まだ……導ける!」
闇の波が再び押し寄せる。
クロノは腕を伸ばし、その先に見える“線”を掴もうとした。
だが、敵の反撃が速すぎた。
エネルギー同士がぶつかり合い、爆ぜるような衝撃が走る。
力の奔流がぶつかり、洞窟全体が震えた。
衝突の余波が空間を裂き、地を揺らした。
クロノの体が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
視界が揺れ、意識が薄れていく。
「……っ……ごめん……もう、少しだけ……」
未来の線が霞み、消えていく。
それでも、最後の一筋だけが残っていた。
(……この未来……だけは……守って……)
彼女の唇がかすかに動く。
それは、仲間たちへ託す“未来への座標”だった。
――そして、静寂。
天使がゆっくりと顔を上げる。
体は重く、羽も光を失いかけている。
それでも、立ち上がる。
限界を越えた体で、仲間の前に歩み出る。
――金の羽が、わずかに光を取り戻していた。
「……もう、これしか……ないか。」
天使の胸から、金の光が溢れ出す。
羽が震え、空気がわずかに焦げた。
命を燃やす覚悟――放てば、二度と戻れない。
静寂の中、彼は呟いた。
「――“終光断界しゅうこうだんかい”。」
刹那、空間が軋み、洞窟全体が金に染まる。
世界が光に包まれ、時間さえ止まったように感じた。
けれど、その輝きの中心で――胸の奥からリアの声が響く。
(だめ! それ以上は!)
「……リア、やめろ……今しか――」
(お願い、やめて! そんなの、もう嫌!)
リアの叫びが、まるで刃のように心臓を貫いた。
天使の腕が止まり、光の輪が震える。
不完全なまま放たれた力が、洞窟の奥を貫き、
空間を切り裂いた後、静かに霧散していった。
「……っ……」
力の余波が消える。
金色の光がふっと揺らぎ、羽が音もなく砕け始めた。
彼の髪が金から銀へとゆっくりと変わっていく。
その光は、美しく――けれど、どこか儚かった。
「……リア……君は……やさしいね……」
弱い微笑みを残し、天使の体が倒れ込む。
金の羽が舞い、彼を包むように光が広がった。
静かな空気が洞窟を満たす。
誰も声を出せないまま、ただその輝きを見つめていた。
次の瞬間、彼女の身体が淡く光を帯びた。
光が髪をなぞるたび、色が変わっていく。
銀から、雪のように――白く。
それは冷たさではなく、どこか優しい温もりを宿した白だった。
髪は静かに伸び、肩を越え、背に流れていく。
指先にかかるほどの長さに変わったその髪は、
天使が最後に放った光と同じ輝きをわずかに宿していた。
頬をかすめる風が、金の羽の残り香を運ぶ。
その温もりに包まれながら、リアの瞳がゆっくりと開く。
瞳の奥には、確かに彼の光が息づいていた。
声も姿も消えたはずの天使の気配が、
今は――彼女の中で、いるみたいに感じた。
やがて光が収まり、静寂だけが残る。
リアは、その場に静かに倒れ込んだ。
リアはもう、ただの少女ではなかった。
天使の記憶と光を宿す、
“世界に残ってしまった存在”へと変わっていた。




kagenaカゲナ
#カゲナキャラクター紹介
キャラクター情報がまとまっています。
#カゲナオリジナルイラスト
創作イラストはこちら。
#カゲナ風景資料
家の構造や風景のまとめ。
#カゲナ光と闇のはじまりスペシャル
読むたびに広がる、映画のような小説世界。

kagenaカゲナ
魂なき英雄伝説4話
「時を裂く光」
――呼吸を一定に。
――熱をしずめろ。
――リアの身体を、壊すな。
胸の奥で金の羽がかすかに鳴った。
リアの中にいる少年の天使は、自分にそう命じながら、抑えきれない力を必死で押さえ込む。
力を解放すれば、リアの身体が壊れる。
だから、彼は限界ギリギリの“最小出力”で戦っていた。
彼の周囲には、黒い霧のような“何か”が渦巻うずまいていた。
それは形を持たず、ただ闇と同化しながら静かに息づいている。
一度斬れば、その動きを学び、次には防ぐ。
放たれる光を吸い込み、まるで経験を蓄積するように強くなっていく。
「……まるで、戦うたびに成長してるみたいだな……」
天使は眉をひそめた。
理屈では説明できない。
まるで、生きた戦闘そのもの――“戦いの意志”だけがそこにあるかのようだった。
「……このままじゃ埒らちがあかない。
だが、リアの身体をこれ以上は――」
天使は焦る。
光の矢を放っても、敵はすぐに次の瞬間にはその軌道を学び、避ける。
同じ攻撃は二度と通用しない。
リアの声が胸の奥で響く。
(大丈夫、わたしはまだ動けるよ!)
「……無理するな。抑えていろ。」
リアの身体は軽やかに動くが、天使が力を制御しているため、反動の熱が体の奥に蓄積していた。
息をするたびに胸が焼けるようだ。
それでも二人は連携し、無数の光の矢を放つ。
だがその瞬間――
闇の奥で“手”のように見えていた影が、形を変えた。
刃のような光が一瞬だけ走り、黒い影の剣が音もなくすり抜けてくる。
頬をかすめた感触とともに、血がにじんだ。
リアが思わず悲鳴を上げる。
「っ――!」
天使は息を呑み、目を細めた。
「……手じゃない……あれ、剣か……!」
闇の形が人の腕にも見えたせいで、最初は攻撃の正体を読み違えていた。
だが今、確信する。――あれは“握られた剣”の動き。
踏み込みの深さ、打ち下ろす直前の体の沈み方。
それは、見覚えがあった。
懐かしい感覚。
遠い昔、誰かと並んで戦った時の記憶を、かすかに呼び起こす動きだった。
まるで、自分がかつて――誰かと並んで戦っていた頃のような。
「この戦い方……まさか……」
だが、考える暇はなかった。
敵の影が地面を裂き、リアの足を狙う。
天使は反射的に盾を強化して防いだ。
そのたびにリアの身体に負荷が走る。
彼女の手が震え、膝がわずかに折れた。
(だいじょうぶ……まだやれる……)
「リア、限界だ! もう動くな!」
⸻
そのとき、後方の通路から声が響いた。
「リアッ! 離れて!」
光が閃き、空気が震えた。
眩い輝きの中から、二つの影が駆け出してくる。
――クレアナとミレイナ。
その名を呼ぶより早く、二人の魔力が戦場を包んだ。
ミレイナが腕を振り抜くと、光布が空中に広がり、盾のように形を変える。
その前に立つクレアナが、指先で空間に数式を描いた。
淡い光の輪が重なり、敵の動きを追う。
「――解析、完了。魔力構造、特異点三つ! ミレイナ、右上!」
「了解ッ!」
ミレイナの布が鞭のように伸び、黒い影の腕を打ち払う。
爆ぜる衝撃。闇が霧のように散る。
だが――その残滓がすぐに再形成され、刃となって襲いかかってくる。
「速すぎる……!」クレアナが息を呑む。
瞬間、天使がリアの身体を操り、前へ出た。
金の羽が閃き、衝撃波が走る。
「くっ――!」
衝突の余波で壁が軋み、破片が飛び散る。
三人の連携が一瞬で崩れ、息を合わせる余裕すらない。
敵はまるで生き物のように動きを変え、
攻撃の角度も速度も、次の瞬間には“進化”していた。
クレアナの魔法陣がわずかにズレただけで、
防御の式が崩壊し、守りの壁が裂ける。
ミレイナが歯を食いしばりながら叫ぶ。
「再生が早すぎる! 今の一撃でも効いてない!」
「……駄目だ、学習してやがる。」
天使が低く呟く。
リアの胸の奥で金の羽が震え、光が乱れる。
三人の息が荒くなり、空間そのものが悲鳴を上げた。
光と闇がせめぎ合う戦場の中で、熱と冷気が同時に渦を巻く。
ミレイナの防御布が焼け焦げ、クレアナの術式が崩れていく。
三人の連携も、もはや限界だった。
天使は一瞬、敵の動きを見て悟った。
――まだ、“本気”じゃない。
黒い霧が渦を巻く。
その奥に潜む影は、明らかに“力を抑えている”。
まるで、まだ何かを取り戻している途中のように。
「……こいつ……本来の力を取り戻したら、誰も止められない。」
胸の奥で金の羽が震える。
リアの鼓動とリンクするように、熱が体内を焼く。
「ここで終わらせるしかない……!
今のうちに――!」
その声には焦りと、確信が混じっていた。
天使の瞳が細まり、金の光が漏れ始める。
リアの身体を借りたまま、彼は自分の命を削る覚悟を決める。
(この怪物を止められる者は、もう誰もいない。
戦えば戦うほど、奴は力を吸い上げる。
――放っておけば、この世界そのものが消える。
なら……ここで断つしかない。)
リアの意識が揺れる。
(やめて! そんなのだめ!)
だが、彼は小さく笑った。
「心配するな。……これが僕の役目だ。」
足元の影が広がり、空間の温度が一気に下がる。
天使の周囲に無数の光輪が浮かび上がり、空間を貫く。
その輝きは、まるで命の炎そのものだった。
けれど――その光の中で、何かが静かに欠けていくのを彼は感じていた。
胸の奥にある“何か大切なもの”が、薄い膜の向こうへ遠ざかっていく。
記憶か、感情か、それとも別の何かか――彼自身にも分からない。
それでも、迷いはなかった。
この力を振るう意味だけは、まだ残っている。
(……リア。もし、これが終わったあと――)
言葉の続きを心に刻もうとした瞬間、思考の輪郭が一瞬だけ霞んだ。
それが何の予兆なのか、彼はまだ知らない。
――ただ、今は守る。それだけだ。
だが――その瞬間。
⸻
空間が“止まった”。
風の流れも、崩れかけた岩の落下も、音すら凍りつく。
ただ、淡い青の光だけが戦場を包み込んでいた。
その中に、ひとりの少女が立っていた。
長い黒髪がゆらりと揺れ、胸元の宝石が淡く鼓動する。
瞳には、無数の時の針が映っていた。
未来を見る少女――クロノ。
「……遅れて……ごめんなさい。」
声は少し掠かすれていた。
まるで言葉を探すように、彼女は間を置いて続けた。
「いろいろ……未来を、探ってた。
でも、まだ……“答え”は見つからない。」
天使が息を呑む。
「……時間を止めたのか。」
クロノは静かに頷いた。
「うん。……長くは持たない。
でも、“時間稼ぎ”くらいなら――できる。」
彼女の周囲に淡い青の輪が広がる。
止まっていた世界の境界が、かすかにひび割れ始めた。
「まだ、あなたたちは生きてる。
未来も……消えてない。」
天使は歯を食いしばる。
「……見えてるのか? この先を。」
クロノは目を伏せ、ほんのわずかに首を振った。
「……まだ、探してる途中。
だけど――“今”なら変えられる。
あなたの命を代償にする未来じゃなくても。」
青い光が再び広がり、凍りついた世界が少しずつ動き出す。
彼女の言葉が、時間の綻びの中で響いた。
「……だから、生きて。
まだ“終わり”じゃない。」
天使の目が見開かれ、拳を握る。
彼の金の羽が再び光を帯び、リアの心臓の鼓動が蘇る。
クロノの瞳の奥で、時の針が動き出した。
「さあ――時間を繋げましょう。」
空間に青と金の光が交差し、世界が再び動き始める。
次の瞬間、封じられていた“敵”の咆哮が、再び響き渡った――。





kagenaカゲナ
魂なき英雄伝説3話
「影の心臓と、眠れる悪魔」
地下の風は、乾いた紙が擦れるような音を立てて流れていた。
崩れた“核”の奥、カゲナとリアは立ち止まり、静かに息を整える。
「……さっきの揺れ、まだ続いてる」
リアが囁く。魔法の灯りがほおをかすめて揺れた。
「大丈夫。通路の歪みは収まってる。――戻るにも、進むにも、今は――」
その言葉が終わる前だった。
目の前に、何かが“現れた”。
音も気配もなかった。
ほんの瞬きひとつの間に、闇が形を持ち、そこに敵がいた。
黒い“手”のような影が――
一瞬のうちに、カゲナの胸を貫いた。
空気が裂け、鉄の匂いが走る。
リアの瞳が大きく見開かれ、喉の奥で悲鳴がちぎれた。
「カゲナ――!!」
カゲナの体が、まるで糸を切られた人形のように崩れ落ちる。
視界の端で、闇が歪んだ笑いのように揺れた。
敵の姿は見えない。ただ“何か”がそこにいて、
見下ろすように息づいている。
けれど、その声は彼に届かない。
血が喉を塞ぎ、息が続かない。
視界の端がゆらりと歪み、光が遠のいていく。
――暗闇の中で、何かが入れ替わる。
⸻
「……っ、なに、これ……痛っ……!」
息を吸うたび、胸の奥で焼けた鉄が暴れていた。
血の匂いが濃く、皮膚の内側で心臓が裂ける音がした。
ノクシアが目を開いた。
視界が滲み、焦点が合わない。
自分の体が地面に押し倒されているのがわかる。
「カゲナ……お前、まさか――」
言葉が途中で切れ、
鋭い痛みが喉を裂いた。
胸にはまだ、闇の手が突き刺さっている。
その先が見えない。
影のような腕が自分の体を通り抜けて、後ろの空間に消えていた。
「ぐっ……ぁあああ――!!」
ノクの叫びが、崩れた空間に響いた。
床に落ちた赤が、光を反射する。
リアの息が詰まった。
その瞬間――
闇の腕が、わずかに蠢うごめいた。
まるで何かを掴み、そして捨てるように。
「……っ――!」
鈍い衝撃とともに、ノクの身体が横へと投げ飛ばされる。
壁に叩きつけられた衝撃が全身を駆け抜け、視界が一瞬白く弾けた。
地に落ちた影が揺れ、黒い霧となって消えていく。
かすかに残ったのは、
胸の奥で暴れる“熱”と、
影の中に残ったわずかな鼓動だけだった。
「ノク!? どうして――!」リアが駆け寄ろうとした瞬間、身体が震え――
瞳の奥に金色の光が差した。
低い男の声が、リアの口から漏れる。
「……リア、すまない。今だけ、主導権をもらう。」
その声――リアの中の男の天使だった。
彼は一瞬だけ、リアの意識を押しのけ、
代償に自分の存在を削って現界する。
リアの周囲に淡い光が走る。
天使の羽の残滓がちらつき、
空間が震えた。
「ノクシア、聞け! そのままだと心臓が潰れる!
刺された部分も、血も、全部“影”で覆え!
内側から守れ、早く!」
ノクは痛みに息が詰まりながら、
震える指先で胸を押さえる。
「な、なに言ってんだよ……こんな状態で……動けるわけ……が……!」
「黙れ、今やれ! 間に合わなくなる!!」
叫びが雷のように響いた。
ノクの意識が一瞬だけ白く弾ける。
無意識の反射で、指先から黒い影があふれ出した。
それは生き物のように脈打ちながら、
胸を貫く闇の“手”にまとわりつき、
血ごと包み込んでいく。
「ぐぅっ……ぁああああああ!!」
全身が裂けるような痛み。
影が体内を走り、血と神経を縫い合わせていく。
焼ける鉄のような熱が骨を伝い、
ノクの声がしぼれた悲鳴に変わる。
天使の声が低く響く。
「そうだ、そのまま“繋げ”。……生きろ、ノクシア!」
ノクの胸に、黒い輪が現れる。
それが“影の心臓”として脈を刻み始めた。
呼吸は荒く、顔は汗と血で濡れている。
ノクはうつむきながら、かすかに笑った。
「……やべぇな……マジで死ぬかと思った……」
天使は静かに息を吐いた。
「まだ終わりじゃない。敵は、まだ“ここ”にいる。」その瞬間、床がうねり、冷たい風が吹き抜けた。
黒い影――さっきカゲナを貫いた“手”が、
再び動き出す。
リアが顔を上げた瞬間、
闇の奥で獣のような咆哮が響いた。
「来るっ!」
天使の声がリアの口を通して叫ぶ。
彼が主導権を握った瞬間、リアの瞳が金に染まった。
天使の羽の残滓が背から溢れ、光の粒が散る。
その光は刃となり、闇へ向けて放たれた。
バシュッ――。
青白い閃光が黒い空気を裂く。
だが敵は動きを止めない。
形を変えながら、壁や天井を這うように迫ってくる。
“形のない怪物”。
リアはすぐに両手を構えた。
光が集まり、無数の矢となって放たれる。
「距離を取れ! 遠距離で押し返すんだ!」
天使が指示を出す。
天使の声が頭の奥で響く。リアは反射的に構えを変えた
リアの放つ光が、暗闇に降り注ぐ雨のように輝いた。
それでも、敵は霧のように形を崩し、再び動き出す。
⸻
ノクは、倒れたままの体を起こし、
クレアナに教わった“視る術”を思い出した。
――視覚ではなく、魔力の“層”で捉える。
息を吸い込み、目を閉じる。
世界が静まり、意識の奥で光が形を結んだ。
そこに浮かんだのは、数値と色――
敵の“レベル”と“属性”を表す指標。
けれど、ひとつだけ異常があった。
その中心にある黒い塊には、
何の文字も映らなかった。
【測定不能 ――????】
「……は?」
ノクの顔が一瞬で強張る。
「ふざけんな……クレアナの術でも読めねぇ……!」
それは、存在そのものが規格外という証だった。
“世界の理に登録されていない”存在。
ノクが歯を食いしばる。
「……こいつ……何なんだ……」
⸻
その間にも、リアと天使は戦い続けていた。
光の矢が次々と放たれ、通路を照らす。
だが敵の動きは止まらず、
壁を溶かすように滲み出して近づいてくる。
天使が判断する。
「……このままでは持たない。」
彼はリアの体を操り、ポーチを探る。
中には、クレアナが渡した青いお守りがあった。
「リア、その護符を使う。ノクシアを飛ばす!」
リアが息を呑む。
「でも、それじゃあ――!」
「いいから! 奴の命を守れ!」
リアの手が震えながらも、お守りをノクの影に押し当てた。
青い光が弾け、転移陣が展開する。
ノクは焦点の合わない目でリアを見る。
「……まさか、飛ばす気か……!」
天使の声が重なる。
「ノクシア、聞け。
今のお前じゃ、この敵とは戦えない。
“入口付近”に転送する。そこにはまだモンスターがいるが、
動くな。能力だけで身を守れ。」
ノクは唇を噛み、息を乱しながら笑った。
「……命令口調がムカつくけど……了解だよ、天使さん。」
天使が短く頷く。
「よかった。……まだ余力はあるな。」
光が強まり、転移陣の紋様が広がる。
リアの髪が風に舞い、ノクの身体を包む。
「――ノクシア、もしお前を救える者がいるとしたら……
この世界で、ただ一人だ。」
ノクが眉を寄せる。
「誰だ……?」
天使はリアの口を通して答えた。
「……お前たちの父、魔王だ。」
ノクの目が見開かれる。
その直後、光が爆ぜた。
白く弾けた光が視界を奪う
ノクの身体は闇を抜けて消えた。
⸻
リアの周囲では、なおも闇がうねる。
天使は主導を握ったまま、光の盾を展開した。
「……よし、これでノクは安全圏だ。リア、距離を保ちながら攻撃を続けろ!」
リアは息を荒げながら頷く。
「わかった……!」
光の弾が連続して放たれ、
闇の中に星のように閃いた。
「右、二歩後退――射線、維持!」
天使の声がリアの口から鋭く落ちる。
リアは後退しながら矢を放ち、闇を押し返す。
だがその間に、ノクシアの身体は光に包まれ――
視界が白く反転した。
⸻
着地の衝撃が、鈍く胸を突き上げた。
息ができない。
血が喉の奥で泡立ち、咳のたびに鉄の味が広がる。
「……はぁ……っ……」
転移先はダンジョンの入口付近。
崩れた岩の間から、かすかに外気が流れ込んでくる。
敵の気配は――ない。
だが、痛みがある。
胸の中で“影の心臓”が不規則に鳴っていた。
ドクン、ドクン、と、
音がずれるたびに体が軋む。
「……はは、笑えねぇな……」
ノクは岩に背を預け、ゆっくりと影を地に広げた。
わずかな魔力で周囲を探るが、反応が薄い。
力が……抜けていく。
「……このまま……寝たら……たぶん……」
言葉が最後まで続かなかった。
まぶたの裏で、リアとカゲナの顔が揺れる。
ノクは苦笑を浮かべたまま、
静かに目を閉じた。
「……起きたら……怒られそうだな……」
影がゆっくりと少女の体を包み、
心臓の鼓動と同じリズムで波打ち始める。
それはまるで――
**自分自身を眠らせ、生かすための繭まゆ**のようだった。
暗闇の奥で、
黒と赤の光が交互に瞬く。
“まだ死なない”
そんな、かすかな意志だけが
ノクシアの中に残っていた。
⸻
そして、どれほどの時間が経ったのか――
その場を照らす青白い光の中、
軽やかな足音が二つ。
空気がわずかに温度を取り戻す。
「……ここ、魔力の乱れがひどい……」
「まって……この気配……!」
影の繭まゆの前に、
クレアナとミレイナの姿が現れた。
クレアナが息を詰め、膝をつく。
「ノクシア……!? 生きてる……!」
ミレイナが頷き、
「でも、放っておいたら……心臓がもたない!」
二人はすぐに行動に移る。
クレアナは符を、ミレイナは光の布を展開し、
応急処置を始めた。
「リアたちはまだ戦ってる……!」
「なら急がなきゃ――助けに行く!」
彼女たちの背で、
ノクシアの影がかすかに震えた。
眠りの中で、微かな声が漏れる。
「……頼む……リアを……」
胸の奥で、何かがこぼれ落ちた。
ノクの指先が、ゆっくりと動く。
そこにあったのは――
青く輝く一枚の羽。
ルミナの羽。
あの日、光と共に消えた彼女が残した唯一の欠片。
ノクはその羽を、
痛みに震える手でそっと握りしめた。
「……ルミナ……まだ、ノクの中にいる……」
かすれた声が風に溶け、
影の繭まゆの光が一瞬だけ強く瞬いた。
それはまるで、
羽が彼の願いに応えるように柔らかく光を返したかのようだった。
そして――
影の繭まゆは再び静かに光を落とした。
赤と青、二つの光が重なり合い、
暗闇の中で小さな命の鼓動を刻み続けていた。


kagenaカゲナ
魂なき英雄伝説2話
地下へと続く道は、冷たい息をしているようだった。
湿った空気が肌にまとわりつき、遠くからぽたりぽたりと水音が響く。
壁には青白い苔がびっしり生え、かすかに光を放っている。
その光は炎にも月明かりにも似て、見る角度で色が揺れる不思議な輝きだった。
リアはその景色に目を奪われ、小さな手を伸ばした。
「わぁ……キラキラしてる!」
「触るな」
僕の声は鋭く出た。
リアは手を止め、びくりとする。
「ど、どうして? きれいだよ?」
僕は一歩前に出て、苔を見つめた。
青白い光の奥で、微かに脈動が揺れている。心臓のようにゆっくり鼓動していた。
「……これ、生きてる。苔じゃない」
そう呟くと、落ちていた小石を拾って壁へ投げる。
石が触れた瞬間、青い光が鋭く強まり、じゅっと煙を上げて石を溶かした。
リアは息を飲んだ。
「……っ!」
「ここにいるだけで、少しずつ魔力を吸われる。だから触るな」
淡々と言って、僕はリアの手を引いた。
リアはしゅんとしながら頷く。
兄の横顔を見れば、ランプの影が濃く落ち、いつもより大人びて見えた。
胸の奥でノクシアが小さく漏らす。
――「優しい手になったね。前は、わざと傷つけるように触れてたのに」
僕は返さないで、前を見据えた。
――足音を響かせながら進むたび、地下の空気は重く沈んでいった。
奥へ進むほど、淡い苔の光は弱まり、赤い光が増えていく。まるで“誰か”に見られているようで、胸がざわつく。
「……気をつけて、リア」
僕は低くつぶやく。
岩陰から黒い影が飛び出した。狼のようだが、背には骨のトゲが走り、赤い目は血のように輝く。
「きゃっ!」
リアの声より早く、僕は蹴り出した。
空気が震え、周囲の空間がわずかに“ねじれる”。
――空間操作。
世界の形そのものを変え、存在の位置をずらす力。
獣の動きが一瞬止まり、見えない圧に押されるように弾き飛ばされた。
だが獣は止まらない。目がぎらつき、再び襲いかかってくる。
「くっ……!」
爪が肩をかすり、痛みが走る。リアはすぐに手のひらを前に出した。
白いひかりがパッと広がり、けものの体を包みこむ。
そのひかりにおされるように、けものの動きがとまった。
「今の……?」
「クレアナに教わったの。光で惑わせる、と」
リアは微笑み、もう片方の手に光を集めた。
白銀の剣が、やわらかな音を立てて形を取る。
彼女の能力――物作り(クリエイト)。武器の生成に特化しているのだ。
「いくよ!」
一閃、剣が闇を裂き、獣は崩れ落ちた。
だがその直後、奥から無数の足音が迫る。赤い目がいくつもこちらを向く。
――ノクシアが胸の奥で笑う。
「こいつら、“悪の気”に喰われてる。」
「斬るだけじゃ足りない」
僕は言い、手を広げて空間をねじる。青い光が流れ、黒い霧が吸い込まれていく。通路が淡く照らされ、モンスターたちの目が次々に澄んだ。
「……戻った」
リアの声が震える。
「この空間そのものが汚れてる。整えれば、救える」
奥の闇が、重く唸る。鈍い音が響いた。リアは剣を構える。
「カゲナ、まだ来るよ!」
「わかってる。僕が前に出る。リア、光で援護を」
リアの光が闇を裂き、僕は空間を切り裂く。三体の異形が崩れ、黒い霧が散った。静寂が戻る。
「……終わったの?」
「一時的だ。でも奥に“核”がある。ここが汚染の中心だ」
僕は手を前に出す。
能力、空間操作の中の1つ技、**空間把握スペース・スキャン**を使う。視覚ではなく、空間の歪みや魔力の流れを感覚として読む技だ。手のひらから青い光が広がり、周囲をなぞると脳裏に地図が描かれる。
そこに――異常な点。まるで世界の底が抜けたように、闇だけが深く沈んでいる。空気が吸い込まれるように渦を巻く、その塊こそが“悪の核”だった。
「……見つけた」
僕は小さく呟き、目を細める。
リアが顔を上げ、剣先を握りしめる。
「何かあったの?」
「奥に、闇を放つ中心がある。空間の流れがすべて、そこに吸い込まれている」
ノクシアが胸の奥で笑った。
――「なら、壊すしかねぇな」
リアの中の天使が静かに囁く。
(僕も備えておく。危なくなったらすぐ出る)
リアは短く息を吸い、兄の背を見つめて頷いた。
「……うん、信じてるよ。兄さんなら、きっと大丈夫。」
僕は息を整え、暗い奥へと足を進めた。
通路の奥で、重たい空気が震えた。
僕――カゲナの中で、胸の奥がざわめく。
(……ノク、まだ出るな)
そう心の中で言っても、返ってくるのは静かな笑い声。
――「カゲナ、今はノクの番だよ」
瞳がゆっくりと赤く染まっていく。
空気が変わり、空間がわずかに“歪んだ”。
僕の体はそのままなのに、雰囲気だけがまるで別人。
リアが目を見開いた。
「……ノクシア……出たのね」
ノクが目を開く。
その表情は無邪気で、でもどこか切なげだった。
「ふふっ、カゲナは少し休憩ね。ノクが見てるから大丈夫」
そう言って、ノクは一歩前へ出た。
その時――闇の奥で、まぶしい青い光が爆ぜた。
光の中で飛び回る、小さな青い鳥。
体全体が光になり、羽ばたくたびに残光が散っていく。
その名は――ルミナ。
ふだんの彼女は、小さな女の子の姿をしている。
空のように透きとおった髪、背中の青い羽。
だけど戦う時だけ、体を光に変えて鳥の姿になる。
「……ルミナ……」
ノクはその名を、小さく、息のように呼んだ。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
――この戦いが終わったら、ルミナはいなくなる。
そう、胸のどこかで悟っていた。
彼女は今、自分の光の力を限界まで使っている。
その光は美しく、けれどどこか悲しかった。
まるで――燃え尽きることを知りながら、それでも輝こうとする炎のように。
小さい頃、クレアナやカゲナの母と一緒にいたとき――
ノクは初めて、あの青い鳥に恋をした。
ノクとルミナはいつも一緒だった。
一緒に遊んで、笑って、時には泣いて――。
ルミナは空を飛ぶ夢を語り、ノクは影で形を作って笑わせた。
その笑顔が、今も胸に焼きついて離れない。
ずっと前から知っていた。
(ルミナ……どうして、そんなに強いの)
ルミナは一人で怪物に立ち向かっていた。
体を光に変えて、何度も何度もぶつかっていく。
その羽がちぎれても、光が弱まっても、止まらない。
ノクは拳を握った。
「……ノクが出たら、邪魔になる」
でも目をそらせなかった。
涙がにじみ、胸が焼けるように痛い。
(ルミナ……ノクね、本当は……ずっと、あなたが好きだった)
光が大きく弾けた。
怪物の腕が振り下ろされ、ルミナの体が壁に叩きつけられる。
青い羽が散って、光が弱まる。
「……やめて……!」
ノクの叫びが、闇をゆらした。
足元から黒い影があふれ、風のように舞い上がる。
紫の光が広がり、空気が震える。
「今度は、ノクが守る!」
怪物が大きな腕を振り上げる。
地面が割れ、石が飛び散った。
ルミナは光の鳥となってそのすき間をすり抜け、
羽ばたくたびに青い光を走らせる。
けれど、光は少しずつ弱まっていた。
羽がちぎれ、体がかすんでいく。
それでもルミナは止まらなかった。
「ルミナ、やめて……もう、そんなに力を使ったら!」
ノクは手を伸ばす。
影が地をはって広がり、
闇の中でルミナを包み込むように抱きしめた。
夜が光を守るように――。
光と影が混ざり合い、
大きな音とともに空間がきしんだ。
怪物の体が砕け、胸の奥にあった“闇の核”が崩れ落ちる。
黒い霧が風に流れて消えると同時に、ノクの膝が震えた。
静かになった空間の中で、
ノクはふらつきながらルミナを見つめた。
彼女の光は小さくなり、
まるで消えてしまいそうに揺れていた。
ノクはゆっくりとルミナの前にひざをついた。
ルミナはもう鳥の姿ではなかった。
人の形に戻り、小さな手がノクの影の上に落ちる。
「……ルミナ……」
ルミナは微笑んだ。
「ノク、ありがとう。光はね影があってこそ、強くなれるんだね」
その言葉と共に、ルミナの光がやわらかく広がり、
ノクの頬を照らす。
ノクはその光をそっと抱きしめるように目を閉じた。
「……ノクの影も、君のそばにいるよ。いつまでも」
光がゆっくりと消えていく。
闇の中に、青と紫の淡い光だけが残った。
カゲナの声が、遠くで響く。
(……ノク、ありがとう。もう、戻っていい?)
ノクは小さく笑った。
「ふふ、バトン返すね。カゲナ……ルミナのこと、忘れないで」
その瞬間、瞳の赤がゆらぎ、再び青に戻る。
静かな息と共に、カゲナが立ち上がった。
リアが駆け寄る。
「カゲナ! ノクは……」
カゲナは目を伏せ、小さく答えた。
「……眠ったよ。でも……少し、笑ってた」
二人の前に残ったのは、
青く光る羽がひとつ――ルミナの羽だった。
カゲナはそれを拾い、そっと胸にしまう。
「行こう、リア。この先にまだ……何かがいる」
リアは頷き、光の剣を構えた。
二人は青い羽の光を背に、再び闇の奥へと進んでいった。
闇の中に、青と紫の淡い光だけが残った。
それは、もう一度夜明けを願うように、静かに瞬いていた。


kagenaカゲナ
魂なき英雄伝説1話
その日の朝、空はすでに重たい色をしていた。
灰を溶かしたような鈍い雲が低く垂れこめ、ざわめく風が森の木々を深く揺らしている。
「ただの天気ではない」――そう直感する者もいた。
行き交う人々は空をにらみながら足を速め、声をひそめて家々に戻っていく。
だが、全員がその異変に気づいているわけではなかった。
多くの人にとっては、嵐の前触れか、あるいは季節の気まぐれのように思えた。
しかし敏感な者だけが、胸の奥にひっかかるざらついた違和感を覚えていた。
――風が重い。
――空気の流れが、どこか“乱れて”いる。
それは、目には見えない魔力のざわめきが世界の底で狂い始めていた証だった。
ほんの一握りの人々だけが、その「魔力の乱れ」を本能で察し、不安を募らせていた。
クレアナは空を見上げ、眉をひそめた。
いつものように風や雲を数値に置き換えて天気を読む――はずが、式はすぐに崩れ、答えが出ない。
「……数値が乱れて、正しく読めません」
滅多に外れない計算が揺らぐ。それだけで、ただ事ではないと悟れる。
横に立つミレイナは黙って腕を組み、重たい風をにらみつけていた。
クレアナの様子を見て、小さく息を吐く。
「……このままじゃ、何かが起きる」
数字で異変を知るクレアナ。
直感で不吉を感じ取るミレイナ。
二人の答えは、同じだった。
ふたりの耳に、誰もいないはずの場所から声がした。
「……来なさい」
姿を見せぬまま響く、女性のものらしき声。
“未来を見る魔王”――クロノが、直接ふたりを呼んでいた。
クロノはめったに人前に姿を見せない。
ミレイナにとっても、ほとんど言葉を交わしたことのない存在だった。
彼女が知る魔王といえば、自分の父――家族として接してきた、身近な魔王の姿だけ。
だからこそ、クロノの呼びかけには特別な重さがあった。
あまり知らない魔王が、わざわざ自分たちを呼ぶなど、普通ではありえない。
ミレイナとクレアナは顔を見合わせ、短くうなずいた。
これはただの不吉な空模様ではない。
無言のまま歩き出す二人の足取りには、自然と焦りがにじんでいた。
向かう先は――“未来を見る魔王”クロノ。
めったに姿を現さない彼女が、自ら呼びかけてきた。
その事実だけで、ただごとではないと知れる。
魔王は青い光を帯びた机に手を置き、低く告げた。
「……この世界に、“規格外”の化け物が入りこんでいる」
クレアナはすぐに指先で数式を描くように空をなぞり、息を詰める。
「数が……合わない。範囲が広すぎて、まともに見えません。これは……普通の魔獣じゃない」
ミレイナは目を見開き、思わず問いかけた。
「どうして今まで気づけなかったの? そんなものがいたら、この世界じたいが歪んでいてもおかしくないのに……」
クロノは静かに首を横に振った。
「見えなかったのではない。“見えないように”隠れていたの。だからこそ、わたしの未来視とクレアナの計算を“増幅”する必要があった」
ミレイナは手を差し出し、想像の力でひとつの青白い玉を生み出す。
「……これなら、二人の力を強められるはず」
クロノは玉に手をかざし、深くうなずいた。
「これで三人の力を重ねれば……化け物の居場所を突き止められる」
ミレイナが額に汗を浮かべながら問いかける。
「……見つけたあと、どうするの?」
クロノの声は短く、重かった。
「封じるしかない」
沈黙ののち、クロノはゆっくりと言葉を継いだ。
「――本当なら、魔王と秘書がここにいるべきだった。だが二人は今、留守だ。だから……頼れるのはあなたたちしかいない」
彼女は普段、人に甘えることも頼ることもない。
常に孤高に立ち、未来を見続ける存在。
そのクロノが自ら助けを求める――それだけで、事態の深刻さは明らかだった。
「この世界に他の強者もいる。だが、わたしが一番信じられるのは、あなたたち二人だ。
ミレイナ……あなたの直感。
クレアナ……あなたの数字の正直さ。
わたしはそれに賭けたい」
クレアナはわずかに息をのんだ。
不器用で、うまく説明することも苦手。
けれど、それでも彼女の言葉と数字は飾り気がなく――だからこそ、信用された。
ミレイナは短く息を吐き、うなずく。
「……わかった。やるしかないわね」
クレアナは長く息をはき、目を閉じてから言った。
「なら、急ぎましょう。だれかが出会ってしまったら、もう手遅れです」
地下の家の共用スペースで、七歳の双子――カゲナとリアは机をはさんで向かい合っていた。
板の壁はランプの光を受けてやわらかく光り、外の不穏な空模様など届かないかのようだった。
リアは小さな木の人形を両手でつかみ、楽しそうに机に並べる。
「見て、こっちが勇者で……こっちは魔王! カゲナ、どっちが勝つと思う?」
カゲナは、ほんの少し大人ぶった顔をして考えるふりをしたあと、肩をすくめて答えた。
「勇者だろうな。でも、本当の魔王は……そんなに弱くない」
そのときだった。
リアの中から――彼女にしか聞こえないはずの声が、かすかに響いた。
(……昔、勇者は本当にいた。ある女を愛し、共に魔王に挑んだ。そして二人は……一緒に死んだのだ)
リアははっとして人形を握る手を止めた。
「ねえ、カゲナ……知ってる? 勇者はね、女の人を好きになって、一緒に魔王を倒したんだって。でも、その時に……二人とも死んじゃったんだよ」
カゲナは驚いた顔を向けたが、リアはただ幼い笑みを浮かべていた。
彼女自身も、その声の意味を深く理解してはいない。
――けれどその言葉は、未来への深い影となって残るのだった。
胸の奥で、カゲナのもうひとり――ノクシアがくすりと笑った。
(へぇ……一緒に死んだ、か。なあカゲナ、死んだ後ってどうなるんだろうな? 消えるのか、それとも……残るのか)
カゲナは一瞬だけ目を伏せる。
心の中で返す言葉を探したが、答えは見つからない。
ノクシアは楽しげに、しかしどこか確かめるように続ける。
(もし残るのなら――ノクみたいに、お前と一緒にいるかもな)
カゲナは小さく拳を握り、黙っていた。
リアは兄の表情の変化に気づかず、人形を再び打ち合わせて遊び始めていた。
幼い遊びの中に混じった「死後の声」。
それもまた、この物語の行く末を暗く照らす予兆だった。
しばらくして、二人は人形遊びにも飽きてしまった。
外に出ると、空はまだ重たく曇り、風がざわめきを運んでいた。
リアは駆け出しながら振り返る。
「ねえカゲナ! クレアがいない今なら、チャンスだよ!」
カゲナは眉をひそめる。
「……チャンスって、まさか」
リアは得意げに笑い、森の奥を指さした。
そこには、岩山の陰にひっそりと口を開ける暗い入口があった。
二人は前から気づいていた。だがクレアナが「危ないから近づくな」と強く言い聞かせていたため、足を踏み入れたことはなかった。
けれど今は――そのクレアナがそばにいない。
リアの瞳がきらりと輝く。
「ダンジョンだよ、きっと! ずっと気になってたでしょ? 一緒に行こう!」
カゲナはしばし黙り込み、闇の奥を見つめた。
胸の奥でノクシアがくすっと笑う。
(へぇ……クレアナに内緒で探検か。面白ぇじゃん。行こうぜ、カゲナ)
リアはすでに足を進めている。
カゲナもため息をつきながら後を追った。
幼い双子の冒険心が、静かに禁忌がを開きつつあった。
リアとカゲナの二人が、足音をひびかせながら地下へと歩いていた。
表から見れば二人きり。
だが実際には――カゲナの中にはノクシアが、リアの中には男の天使が、それぞれ静かに寄り添っていた。
リアは無邪気に笑い、カゲナもそれに合わせて口元をゆるめる。
だが胸の奥で、二つの存在は息をひそめていた。
もし危険が迫れば――自分たちが出て守らなければならない。
ノクシアは、いつでも飛び出せるように影を広げて構えていた。
男の天使もまた、静かに備えている。だが彼には制約があった。
リアが眠っているか、気絶している時にしか現れられない。
それ以外で無理に出れば、リア自身に大きな損傷が走る。
だから戦う時は、リアを守るために自分の命を削るほかない――。
それでも彼は迷わない。
(……いざとなれば、出る。リアを守るために)
ノクシアはくすりと笑い、赤い瞳を胸の奥で細める。
(へへっ、頼りにしてるぜ。お互いにな)
こうして幼い双子の冒険心の影には、悪魔と天使という二つの存在がひそみ、ただ「守るために」静かに牙を研いでいた。
その真実をまだ知らぬまま、
彼らは新たな一歩を踏み出す――。

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