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リクリ
最近、虚無感があるのと、思考の種をいただけたので少し考えてみようと思う。存在の価値や孤独などなど。
■そもそも、"私"とは
"私"を私たらしめているものはなんであるか。まずは自我。私を私として認識し、または私以外の他人を認知できるもの。その他人が認知している"私"も構成要素である。要は主観と無数の客観によって"私"は構成されている。
■構成要素の不足-客観
例えば、構成要素である無数の客観が失われた時にどうなるだろう。"私"は私であることを、認知できるだろうか。一応はできるはずだが、私という存在の構成要素の欠落によって、その存在は"薄く"なるのではないだろうか。これをいわゆる孤独として感じるのかもしれない。
■私の虚無感の正体
私の虚無感、言い換えれば孤独感とは他者との関わりの希薄さからくる、構成要素不足なのではないだろうか。今の私は社会(仕事)から切り離されて存在している。故に自分を見失いそうで、孤独を感じ、虚無感へつながる。そして、今、他人を求めてる。先日、友人との電話による会話を楽しんだのだが、この虚無感は少し薄れたのだ。つまりはそういうことなのだろう。
■構成要素の補充
特に、自分の能力(考えること)を効果的に使うことのできる電話であったため、自己肯定感の向上に寄与している。主観的"私"。客観的"私"。この二つが満たされるのが他者とのコミュニケーショの中にあるとするならば、やはり人との関わりというのは、健全なる精神の構築に一役かっているのかもしれない。
■構成要素の不足-主観
孤独は、客観的"私"の不足。逆に主観的"私"の不足はどうだろう。私を私が認め、肯定できる要素。それが欠落している時、人は客観的"私"で補おうと、依存するのかもしれないな。もしくは、正しく、自己肯定感を取り戻すために動くのかもしれない。自信を取り戻し、"私"を再構築するのかな。
■まとめ
なんとなく納得できた感じ。
探せば見つかる答えなのかもしれないけど、やっぱりこうやって自分で考えて納得するの大事。
"私"=客観的"私"+主観的"私"。
いずれかの構成要素の欠落により、孤独や不安が発生する。それによって、客観的"私"もしくは主観的"私"を供給する必要があり、そのために人は行動する。
場合によっては、他者へ依存して客観的"私"を補う。もしくは、自意識を過剰に保ち、虚勢を張り、主観的"私"を供給する。
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リクリ 投稿者
感想。 SNSの普及で"孤独感"はないけど、見かけだけ。実際は、僕も孤独であった。僕は"私"を満たすために、行動したい。 また、引きこもりや突飛な犯罪を犯してしまう心理構造にもなにか共通項がありそう。"私"が崩壊する時、人はどうなるのかわからない気がする。
min.
グルグル映畫館が聴きたくなりました
あお🫧
的はずれかもしれませんが、頭に浮かんだことを投げさせてください。 私の構成要素の“客観的私”と“主観的私”は、配分はおんなじですか? 人は“何”をみて私という人を判断するのだろう。わからないものを自分の構成要素にするのはなんだか不安定💦
リクリ 投稿者
客観的"私"と主観的"私"のバランスをとるために、人は1人になったり、複数人でつるんだりするのだろうか。