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あお🫧
回答数 81>>
――「大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだ」
大切な人に傘をさせる距離にいられること、それが幸せだと感じたからである。
ところがそのとき、こう言われた。
「その歌詞を聞くと、傘をさしかけられない車イスの人をイメージする。かわいそうだ」と。
その言葉が、ずっと心に引っかかっていた。
この問いに向かいあったとき、その違和感の正体がわかったような気がした。
私が違和感を覚えたのは、「だから車イスの人には幸せが得られない」という優劣を導いてしまう視点だった。
そこから透けて見えたのは、相手を「かわいそう」と決めつける、上からの考え方。
そして思う。差別とは「違いを劣っていると決めつけること」だ、と。
人がそれぞれ異なるのは当たり前のことだ。
背が高い人もいれば低い人もいる。
絵が好きな人もいれば音楽が好きな人もいる。
本来その違いに優劣をつける必要はない。
しかし、社会には「標準」や「理想」とされる姿がある。
その枠から外れると「劣っている」と見なされやすい。
引用した歌詞を例にとるなら、「大切な人に傘をさす」が理想像とされた結果、
「傘をさせない人」が「不幸せ」と断定されてしまうように。
だが、幸せの形は一つではない。
自分で傘をさすことに喜びを見いだす人もいれば、雨に濡れながら笑い合うことを幸せと感じる人もいる。
その多様な姿を認めず、自分のものさしで優劣をつけることこそが、差別の根ではないだろうか。
差別心は、ときに「親切」や「寄り添い」のかたちをとる。
しかしその実態は“上からの視点”であり、相手を「かわいそうな人」と枠づける態度である。
そのため、当人が楽しそうにしていたり幸せを得ていると、
「無理をしているのでは」「本当に大丈夫か」と圧力をかける。
まるで「かわいそうな人であってほしい」とでも言うかのように。
ゆえに差別とは、単なる違いの認識や区別ではない。
それは、違いに優劣を与え、相手の可能性を「こうあるべき」と限定し、
自由を奪ってしまうまなざしのことであると考える。
コメント
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さめ
M版とちょうど被らんくらいな感じか

はぜど

かじゅ
#日向坂46_BRANDNEWLIVE_DAY1

こっし
くそぅっ!今週末は出勤したくない!

ドノツ
このタイミングだけは勘弁してもらえませんか?

ほげ

イバお
#日向坂46_BRANDNEWLIVE_DAY1
#日向坂46

オリた2

こらる

りゅう
四球を出しても良い場面はあると思う。
しっかり狙われている。 #giants
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ごまとうふℱ🎸
偏見の目で見てしまう 間違ったものの見方ですね
yjk☁️
ほんそれ その「可哀想」とは誰の基準なのか? そもそも、障害を持たない人に、障害を持つ人の実感が本当に分かるだろうか? 差別する側は“その人”をほんの一部しか知らない。 誰だって他人を100%理解することはできないのに、「分かったつもり」になってラベルを貼る。 それは推測にすぎず、理解とは呼べない。 だからこそ必要なのは、相手を「障害者」といった枠ではなく、一人の“個”として見ることだ。 そのために不可欠なのが対話である。 対話を欠いた理解は、結局ただの妄言に等しい。