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アナコンダつよし
回答数 77>>
人はどこかで見た誰かの行動を真似している気がする。
自分の気に入ったモノを心の棚に飾ってみんなに公開してる。
棚に飾るものの組み合わせが「わたし」を象ってると思います。
コメント
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ハル
今は生きる意味が見つかった。でも、それがなくなってしまったら今までみたいに、いつか、に縋って生きる元気はないと思う。

A🐺
喋るのは楽しいし遊べるけど自分からは好きにはなるのか絶妙

名前ナシ@プロフ必読

久遠

予定は未定の密偵

くまさん
回答数 26>>

てや

かるぱっちょ
ティッシュ1枚貰えますかって
言っていいかな、、、

りゅうた
権限も裁量も持たぬ立場において、謝ることは倫理的判断ではなく、摩擦を最小化するための処世的身振りに近い。
しかし、年齢とともに技能・地位・決定権が蓄積されると、謝罪の位相は反転する。
その言葉はもはや反射ではなく、自己の判断を誤謬として引き受ける宣言となる。
謝るとは、事実関係を認めるだけでなく、
「自分は誤りうる存在である」という存在論的前提を、公に差し出す行為だからだ。
このとき謝罪は、
権威の一時的放棄であり、
自己像の崩壊を伴う意志的な自己縮減である。
ゆえに、成熟するほど謝罪は困難になる。
それは臆病さではなく、責任の射程を知ってしまった者の逡巡である。
翻って、小学生の掲げる
「感謝と謝罪を言えるようになろう」という標語は、
実は道徳的初級課題などではない。
それは、力・地位・正当性を獲得した後でもなお、
他者の前で自己を相対化できるかという、
高度に洗練された倫理的要請である。
感謝とは、世界が自分中心に回っていないことを引き受ける態度であり、
謝罪とは、自分の正しさより関係の持続を選び取る決断である。
つまりこの標語は、
「善良な子どもであれ」という命令ではなく、
「力を持ってもなお、謙虚であれるか」という、
生涯にわたる哲学的問いなのだ。

のど
そんなけ好きやからか、、
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むっし

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おるか

てじ
と言いたいとこだがまだ54球、点取るしかないねん…

あれな

シュウ
すーぱーこじけん4の4の意味知りたすぎ!

のるり

ひびき

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あお🫧
無意識も含めてそうかも