投稿

サイダー
回答数 21>>
家電に限らず、野菜から牛丼、警察、社会保障制度まで、原理を知らなくても安全に利用できるから、そのシステムを維持するために働いたりお金を払ったりするわけだ。
結果としてそれが人類をシステムの奴隷にしてるよね、個人の裁量を減らしてるよね、という批判は一理あって、カジンスキーの『産業社会とその未来』はそういう論文だと思う。
コメント
話題の投稿をみつける

ハルノ

ミチタ

戰國え

和音(

べびー

ちぇり
やっぱり現地イイなぁ✨

れべ💫

胃カメ
察するに トミコ は ミニカーでしょうなあ
そりゃあぼっ◯するよ

TM(とも)
ネトサ見るか〜

あけみ
また胸が痛いんだ
君はロックなんか聴かないと思いながら
少しでも僕に近づいてほしくて
ロックなんか聴かないと思うけれども
僕はこんな歌であんな歌で
恋を乗り越えてきた
もっとみる 
関連検索ワード


愛善院
そういう意味で、ほとんどを21世紀で過ごしているので「日常に使えるものがある」ことに抵抗がなくなっていくと思うわけです。冷蔵庫がフロンガスだった時代もパソコンが電子計算機でしかなかった時代もすっとばして、割と使える状態として身の回りにある。 環境活動とかに目覚めたわけでもなく、ある日突然、電気がストップしました、ガスの供給がありません、となったときに、人間は火の興しかたや安全な水の確保のしかたを、生命としてちゃんと継承してきたのかなぁと。 使えるものを使えるようにする維持し続けようとSDGSやる? これは教育視点としての単なる杞憂でもあるのですけれどもね。