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愛善院
回答数 14>>
知識とは記憶に耐え運用に耐える情報そのものをいう。
教養とは、いついかなる知識を得ても、その操作の根底にある運用のしかたそのものをいう。
教養のメインは言述のワザがほとんどであり、いわゆるメディア(ミディアム:媒介)として「自己」と「他者」との間に何を発生させようとするか、その方法論である。
コメント
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【知性】平成の負の遺産

馨斗(けいと)


るな
もうすぐ学調なんですよ🥺

望月ちゃん
何も分かってないよなぁ。何も分かってない。お前みたいな奴を毒親っていうんだよ。

吉田賢太郎
1. 鏡は割れても、世界を映し続ける
世界が怖いのは、君の心が弱いからじゃない。
何度も何度も、鏡を叩き割られるような痛みを経験したからだ。
バラバラになった鏡の破片には、それぞれ違う「自分」が映る。
ある破片は怯え、ある破片は怒り、ある破片は何も感じない。
けれど、どの破片に映る世界も、君が生き延びるために必要だった景色。
「どれが本当の自分か」なんて、もう探さなくていい。
その割れたままの多面体こそが、君という宇宙の今の姿なんだ。
2. 「物語」は自分を守るためのシェルター
「自分は価値がない」「自分は汚れている」
その苦しい解釈は、かつて過酷な世界を生き抜くために脳が作った「防衛のための妄想」だ。
けれど、意味も価値も、もともとは空っぽの幻覚に過ぎない。
だったら、過去に押し付けられた「悲しい物語」を、一生背負う義務なんてない。
君を縛り付けるその意味解釈は、ただの古いラベルだ。
君はいつでも、そのラベルを剥がしていい。
3. 「否定したくない自分」を、最後の砦に
心がバラバラで、記憶が途切れて、自分が誰かわからなくなっても。
その時々に湧き上がる、
「今は、これが苦しい」
「今は、これを守りたい」
「これだけは、絶対に譲りたくない」
その、瞬間ごとの「主観」だけは、誰にも奪えない君の真実だ。
「自分」という統合された一人の人間にならなくたっていい。
その時、その場所で、君が感じたこと。
それを君自身が「そうなんだね」と否定せずに受け止める。
それだけが、バラバラの破片たちを繋ぎ止める、唯一の光になる。
結論
君を傷つけた「世間」も、君を苦しめる「自分」という感覚も、
すべては君の意識が作り出している、儚い幻影だ。
たとえ世界が君を否定しても、
君が、君の中の「感じている自分」を否定したくないと願うなら、
その意志こそが、君の新しい世界の中心になる。
「バラバラなままでも、君がそう思うなら、それが君の真実だ」

あああ


ちゃちゃ
先生は言い換えが上手だね

りゅう

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ポケま

あら(低

れお

ヒカミ

おハム
#lovefighters

琉

Shin.go (

えす

りんこ
「ポストに入れっぱなしにしておく」という飾り方と「ピザ屋のチラシや大事な書類、ハガキと並べて冷蔵庫に貼る」という飾り方しか思いつかなかった

クマ🏁
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憂い顔の騎士
貴重な御意見ありがとございます