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さとうゆーき
という発言にアジカンのボーカルが反論し炎上したのももう7年近く前になる。政治色の強い学生団体SEALDsが、ロックの祭典であるフジロックに参加したことに対して、不満の声があがった。
フォークやロックは、社会運動や学生運動と切り離せない関係にあり、歴史的にみても政治メッセージの強い音楽ジャンルだ。しかし70年代以降の日本の音楽シーンは、政治的なメッセージからいかに離れていくかが重要だった。「フジロックに政治を持ち込むな」という発言は、70年代以降から続く日本人の政治アレルギーを象徴する言葉とも言える。
60年代から70年代初頭にかけて、日本で最も政治性を持っていた音楽はフォークだった。時代的には学生運動全盛であり、日雇い労働者の労働改善や資本主義の暴走を止めるために多くのフォークゲリラ集会が開かれ、いくつものプロテストソングが生まれた。同時にロックでも反体制を叫ぶミュージシャンが多く生まれた。
しかし新左翼の行き過ぎた思想とそれに伴う暴動が学生運動の敗北を決定的にした。さらに新左翼思想への反動が巻き起こり、政治や環境問題に無関心な消費社会が到来する。プロテストフォークブームは、70年代初頭に終焉を迎えた。
それ以降は、反体制を標榜するロックミュージックがある程度プロテストソング的なものを歌ってきたが、いずれも消費社会の波に飲み込まれていくことになる。
70年代末には歌手のイメージを分かりやすく記号化し、商品にしていく手法が一般化していく(例:矢沢永吉、沢田研二など)。
同時に政治性との断絶が図られ、消費社会にとって無害な存在へと変わっていく。
そしてその流れは80年代、90年代、そして現代へと続いていると考えられる。
「フジロックに政治を持ち込むな」という発言は、50年も昔から続く新左翼的な思想へのアレルギーであり、消費社会の呪縛でもある。
かつて受け手と送り手が社会を変えようと取り組んでいた音楽運動は今、受け手と送り手にとって肥大した自我を満足させるための手段として機能しているように思う。もちろん全てではないが、「なぜ歌うのか」「なぜ音楽でなければならないのか」という根本的な部分があまりに薄っぺらいため、ビジュアルやセクシャルを強調し、商品として消費されていくしか道はない。
虚しさを感じずにはいられない。
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さとうゆーき 投稿者
結論の出し方が一面的だったと思う。音楽・ミュージシャンの記号化や商品化は「良い、悪い」という問題にすべきではないのに、自分の感情に引っ張られ、だいぶ批判的に結論づけてしまった。 とはいえ、あくまで自分用のメモとして残すだけだから問題ないけど。