ここ2年半ほどの間に感じたのは、教育的営為を遂行する謂わゆる「教師(教授)」と呼ばれる一般には知的であると眼差されうる人々のなかには、それが高等教育の領野であれ、論理を支える言語体系が(あり得ないはずなのだが、どういうわけか)欠落しているようにしか思えない人々が一定程度存在するらしいということである。当初私はこのことを信じられなかったのだが、やはりそうであるらしい。これは極めて嘆かわしいことであり、かような人々に教育が任されていることをゆるしている環境を、それをそのままにしていることを、社会は恥ずべきなのである。私がこれまで触れることが幸いにしてなかっただけで、実は社会の中に広く沈潜しているのではあるまいか。
#真夜中の哲学
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ここ2年半ほどの間に感じたのは、教育的営為を遂行する謂わゆる「教師(教授)」と呼ばれる一般には知的であると眼差されうる人々のなかには、それが高等教育の領野であれ、論理を支える言語体系が(あり得ないはずなのだが、どういうわけか)欠落しているようにしか思えない人々が一定程度存在するらしいということである。当初私はこのことを信じられなかったのだが、やはりそうであるらしい。これは極めて嘆かわしいことであり、かような人々に教育が任されていることをゆるしている環境を、それをそのままにしていることを、社会は恥ずべきなのである。私がこれまで触れることが幸いにしてなかっただけで、実は社会の中に広く沈潜しているのではあるまいか。