他者の視線なき善悪の例を挙げてみよう。善でも悪でも。

ベイ
仮に自我を他者カウントしない場合
そこには誰もいなくなると思う
善悪は何者かの意識がそこに存在しない限り
空(くう)となりどんなものもどんなことも
善悪たらしめない

Jaco_ten

ブヒっとさんR

ししむ

サリンジャー
直感で卑猥なことしか思い浮かばんから却下( ´Д`)y━・~~

坂本龍馬
逆に、身体の不調による不便が出た時に気付いて頂いて手助けして頂けたら助かります。
そのような意味でしたら、いくらでも見守って頂きたいです。

はかり
自分は、善悪とは行為者の行為を観測者が評価するもの(簡略)と考えている為、これから話す意見について自分自身正しいとは思っていないのですが、面白いので回答したいと思います。
例えば、行為者が自身の自己保存性の暴走により、短略的行為をしたとします。
その行為の結果、自己破滅した場合はどうでしょう。
自己保存性が自己保存に失敗するというのは、悪と定義してよいかわかりませんが、誤りではあるのではないでしょうか?
ちなみにあえて関係性を説くなら摂理から見た悪でしょうか?
摂理が悪と評価するかはわかりませんが、、、
これを悪と定義するならば、これを悪とした座標で判断するだけであり、
その行為に対して、自身の倫理観に沿わないと思い、それを悪とするならば、その座標で判断するだけであると思う。
結局のところワードでしかないのだから、それぞれ別の名前があればいいかもしれません。

be

めいか
まずは前提条件から確認してみましょう。
「他者の視線なき善悪」は、「自分自身の視点のみの善悪」
つまり「人間の社会性を考慮せず、それを判断できる他者が存在しない」という意味合いの前提条件なのでしょう。
言い換えればそれは「自分自身の内面にある、倫理観や道徳観」を問うている訳ですね。
これらの前提条件の場合【善悪は存在しない】という回答になります。
なぜなら善悪とは、社会性や他者ありきで判断されるからです。
道徳観や倫理観も、社会で生活していく中で構築されます。
また「社会性がない善悪」というのは、「他者がいない善悪」あるいは「善悪を判断する他者がいない善悪」という考え方もできます。
この場合、【善悪を判断できる人は自分自身しかいないため、自分自身の価値観そのものがルールになる】はずです。
ルールになった段階で、それは善悪では無いと考えます。
他の方が言っていた【悪とは自分自身を傷付ける行為、善は生命を維持すること】という結論も、他者ありきの結論です。
自分自身を傷付けたとしても、それを判断する他者がいないのなら、
それは【自分自身を傷付けるという意思】のあらわれであり、【自分自身を傷付けたという行為】あるいは【結果にすぎません】。
生命を維持することも、同じように【自分自身の生命を維持するという意思】や【自分自身を活かそうとする行為】ではありますが、それもまた【結果にすぎません】。
善悪ではなく、因果でしかないということですね。
つまり【他者の視線なき善悪は、そもそも存在しない】というのが私の結論です。

蘇我霊幻道師准尉
ご飯を食べない悪(体力低下=危険な状態)、ご飯を食べる善(生命維持=未来をつくる)
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