(人を含む)生物全てを愛したい気持ちは承認欲求が含まれるのか

アボカド
そうじゃないなら「〇〇を好きでいる自分いいでしょ?」って人にアピールしてるようにしか捉えられない

愛善院
質問者のMBTIの厳密なところはわからないけれども「INFJ特有の自己憐憫の逆照射」としてあるんだよなぁ。現実としての世の中がどれほど醜くアホらしくとも、野生の中にある生態系の見えざる秩序のなかに安らぎを見いだせる。
そこにある例えば弱肉強食という(世間一般では残酷にみえつつも人間には関係ないとして遊離する)ものごとすら、人間のせせこましさや小賢しさに比べて尊いものに思えたりする。
ある種の現実逃避でもあるのだけれども、私たちも(本来は)生態系の一部として、そこに属するような感覚があったりもする。
いうなれば「森羅万象に認められたいという承認欲求である」と言えないこともないのだけれども、このあたりまで行くとマズローの自我同一性とかからもすっとんでいるときがあるので、言語化するのすらなかなかに難解な世界。
ゆう(低浮上中)
「愛したい」と思う理由が、
「愛する」という行動を「正しい」行いだという認識のもと行うのだとしたなら、
「社会」の中の自分を「正しい」行いをすることで承認されたいと思っているということであり、
この場合、「承認欲求が含まれる」となります。
一方で、
「愛する」という行動を自分の価値基準のもとにのみ行うのだとしたら、
そこには「承認欲求破介在しない」となるでしょう。

伯爵
「生物全てを愛したい欲求」は、人の原始的欲求ではなく、後天的に備わる価値観です。例えば植物や動物は意識しやすいですが、その意識が微生物や細菌、細胞にまで適応させるには「何をもって生命とするか」という判断材料と知識が必要です。その個人の“世界”それぞれによって対象は拡大、あるいは縮小します。
この「愛すること」を多くに知らしめるならば「承認欲求に基づく」欲求と言えるでしょう。ここには「行動の結果が多くの人の注目を集める」場合を含めます。
「誰に言わずとも行う」「行為そのものに意味を見出す」などであれば、承認欲求に基づくとは言い難いでしょう。信念や信仰とすれば、それは内発的な“陶酔”による動機といえます。
つまりは、「愛すること」と「承認欲求」に直接的な因果はなく、「どう愛するか?」が承認欲求と結びつきます。

サイダー
愛したくない=嫌いな気持ちは、自分が相手に嫌なことをされたとき以外は生じるべきじゃないから。
「嫌なことをされそう」だけだとただの偏見で、生き物すべて愛したい(慈愛心がある)人が世の中に少ないのは、偏見を持つ人が多いから。
承認欲求は基本的に誰にでもあるんだけど、偏見は承認欲求を満たすためにすごく効果的な手段。
慈愛心は、その偏見を持ってない証だから、承認欲求とはいえないと思う。

サイゼの小エビ

たかし(大阪)
でも
思うだけなら含まないんじゃないかな。
AskA

マルコ・アモレッティ

いしのみ
ヒトは愛したいと思ったこと無いからわからない。
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