異なるかどうかの実態は別として、そう考えるべきである。同一人物の言語運用において言葉を異にした場合、意識的にせよ無意識的にせよ、そこには少なからず位相として意味の違いがあると観察されるべきである。他者の扱う言葉を誠実に引用しなければならない(解釈を加え別の言葉にかえることは人格権の否定である)とするのは、この論理を生活実態に乗せたものである。
まず前提として、「言葉が“同じ”であっても意味が異なる」という場合があるのです。例えば、「賃金」という言葉の意味。経済学の世界では「賃金」の意味について、ここ数百年議論し続けて来ました。古典派経済学では「賃金とは労働の対価である」と説明するでしょうし、マルクス経済学では「労働力の生産費=対価である」と説明します。マクロ経済学者は労働市場における需給関係から説明するでしょうし、ミクロ経済学者は企業と家計の関係から説明をするでしょう。同じ言葉であっても、様々なパースペクティブから複数の意味が生ずるのです。況や異なる言葉に於いてをや、というものでしょう。
クロード・レヴィ=ストロースは人類の論理性は世界中どこへ行っても変わらないと唱えた。それと同様に言語にも普遍的な概念が存在する。フランス語の"Je t'aime"は「私はあなたを愛する」という意味である。依って言葉が異なれば必ず意味も異なる、とは言えない。
クロード・レヴィ=ストロースは人類の論理性は世界中どこへ行っても変わらないと唱えた。それと同様に言語にも普遍的な概念が存在する。フランス語の"Je t'aime"は「私はあなたを愛する」という意味である。依って言葉が異なれば必ず意味も異なる、とは言えない。