「悪」とは?

点P

涼
悪とは記憶あるいは五感情報の欲求を知性で形作り実行可能な状態を指す。
『何が言いたいのか?』
他者との関わりにおいて
責任と思い遣りを持つ事が大切です。
と言っています。

あお🫧
善行や思いやりも、
もともとの動機を辿れば
自分の心の欠乏や引っかかりを避けるために出てくる行為だ。
つまり、善も悪も、根っこをたどれば
エゴの働きから出てくるものであり、
人間の行動の全ての源泉である。
よって、悪は特別な存在ではない。
それは、誰の心の中にも潜んでいる
影のようなものだ。
悪の根底には、いつもエゴがある。
エゴは、静かに心の底で息をしている。
ときにそれは支配欲となり、
他者の自由を奪う形をとる。
ときに優越への渇きとなり、
他者を踏み台にする。
喪失への恐れに姿を変えれば、
誰かを傷つけてでも自分を守ろうとする。
承認を求める渇望となれば、
真実を覆い、嘘を紡ぎ、欺くこともある。
これらは本来、防衛本能として自然なものだ。
だが、エゴが理性や共感を追い越したとき、
人は「悪」と呼ばれる行為をなす。
残酷さの根は、欠乏と恐れにあるのかもしれない。
人は「悪を憎む」と言いながら、
自らのエゴは「正義」だと信じやすい。
悪は他者の中には見えても、
自分の中には見えにくい。
自ら考えることを放棄し、
心の感覚を鈍らせ、
正義の名のもとに思考を停止するとき、
人は他者の痛みに気づかなくなる。
その鈍感さこそが、
悪が芽吹く温床となる。
社会において「悪」とされるものは、
共同体が共有する“善”から逸脱した行為にすぎない。
それは「みんなを不安にさせるもの」に貼られるラベルであり、
ゆえに悪は絶対ではなく、相対的に定義される。
悪(エゴ)は誰もが持ちうる。
すべての行動の源がエゴである以上、
善も悪も、その「程度」と「多数派の価値観」によって決められる。
少数は、しばしば“悪”と名づけられる。
──だからこそ、「悪」を語るとき、
私たちはまず、自分の中のエゴと向き合わなければならない。
外側ではなく、
内側の影と。
#エゴと悪#行動の源#ことばりうむの星


ゆかり
周りがある程度鍛えられたら、そこでの役割が無くなり他所へ出向くことになる。
悪は悪の必要な所に必要なだけ居座るから、
意識的に鍛えて貰って学び尽くして満を持して縁が切れる様にちゃんと向き合った方が良いと思うよ。
悪を嫌がって避けてても、学びが充分でないと、同じ様なのがまた幾らでもやって来るから。
縁が完了したら、感謝の念を忘れずに。

くもの
可能性が増大する選択肢を取る方が善。
究極の悪は虚無。

神咲來未
本当は、この世の全てが悪だったりしてね
世界中探し回ったら、きっと「絶対に善」と思っていることさえ、悪になる可能性は0ではないよね

りり
正義感や仲間意識が「悪」を生み出すのかもしれませんね?

つきじ

りら
社会通念上の正義でも、個人的な信条でもそう。
個人的な信条に反していなければ、自分は受け入れられなくても悪とは感じない。
では、社会通念と信条が真逆を行く場合は?
失うものの大きさ次第。

junchi
•対義語の「善」に対する「悪」は…議論する上でも(ディベート)などの場面では、両方とも必要かつ不可欠なもの。価値は同じ位置付けに感じてます。
•社会的犯罪に該当するものは、明らかに「悪」
•人間として性根が腐ってることも「悪」
例:「あなたのことを思って言うけど…」
の口癖の人の本音が、相手より優位に立ち
たいだけの場合
→(私はあなたより優れている)
:「〜があなたのこと〜て言っていたよ」
→噂話、陰口が趣味みたいな言動はいつか自
分も犠牲になる。
•自分の非を認めない人も…ある意味「悪」
→謝罪することができないのは、自分の価値
が下がると誤って理解しているから。
自分に正直に、素直になる勇気が不足。
※経験値からの「悪」の意味づけです。
#悪

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