「愛」とは何か?自分を愛することは可能か?
過去に哲学対話をするコミュニティで“「愛」とは自分よりも相手を想うこと、相手を主体として考えること”という結論になりました。「愛する」の定義が「自分よりも相手を想う」だと、相手がいる状態が前提となるため、実質自分を愛することは不可能なのかな?という好奇心、疑問から生まれた問いです。まずはあなたが考える「愛」を教えてください。その上で自分を愛することは可能なのか、根拠を添えて書いてくださるとありがたいです。

まさき

愛善院
私にとってはこれら表現物から、愛とは「存在の全肯定」と定義を置きます。これはどちらかといえばキリスト教的な愛。ここでは、神(人間よりも高次の存在)に、あるようにあれば良い、と認められるようなイメージが「愛」ですね。
日常生活をしていて神と年がら年中交信する人間はいないので、神に認められるために人間はいろいろな戦略を編み出します。
恋愛も推し活もそうですね、根本は「自分より高次(だと自分が認める者)に認められる」を愛だとします。
マッピング図示は、実はもっと単純化できます。
自分が認める→神(高次)→神(高次)が自分を認める
であれば
自分が認める→高次の自分→高次の自分が自分を認める
とやってもよい。
なれば
自分→自分
だけでも完結する。
むしろ、他者を介在させない「自分を愛すること」がなく、他者に認められることを求めているのは、カルト宗教に近いようにすら思うのです。

ほだけ

憂い顔の騎士

らうらか
毎日生きる選択をとり続けている、それは能動的な愛なのではないでしょうか。

伯爵
これが私にとっての愛の仮説。
おっしゃられる「相手を認め尊重できること」の定義を平たく言ったものとして機能する論説だと思います。
この質問で定義すべきは「愛」である前に「自分」かと思います。
占い師やってるとつくづく思うのですが、「自分=意識」だと思ってる方が多いのです。しかし、実際のところは違うと私は考えます。
ここら辺、丁寧に説明しますね。
自分を構成するものを(実はまだ確定してないのですが)私は仮に「意識」「心」「脳」と区別してます。
いづれも「自分」には違いありません。
心:精神とも。感情の領域で、好む好まざるに関わらず受け取った情報に主観で反応する。コントロールしづらい。(例:難しい本が嫌いになる)
脳:身体・神経・本能を内包。生命維持の領域で、受け取った情報に“適応”しようとする。ある程度コントロールはできるがコツと訓練が必要。(例:難しい本を読むと眠くなる)
意識:意思・自我とも。知覚・認識の領域で、受け取った情報を論理的に処理しようとする。一番コントロールしやすいが、脳や心に邪魔されやすい。(難しい本を読もうと決意する)
踏まえまして。
「自分=意識」を前提とした時、「自分を愛する」は難解です。余程自己肯定感が高くなければ、大抵の人は自分のことを後回しにします。自分を愛するなんて「一体なにすればいいんだよ」となって当然。
では、「自分≒心、脳、意識」では? 意識はともかく、心と脳は切り離して考えることができます。だって、コントロールできないんだもの。他人も同然です。
他人同然なら、愛することは何だか可能に思えてきませんか?
「(自分の)心を認め、脳を認め、尊重して感謝し続けられること」すなわち「自分を愛する」かと思うのです。
経験上、多くの方がこれをできていません。自分の心が傷ついていても耳を傾けません。脳が抵抗を覚えても無視しようとします。これだと、心とも脳とも対話ができていません。
心も脳も、意識の敵ではありません。耳を傾け折り合いをつける。これが「自分を大切にする」すなわち「自分を愛する」につながると思うのです。

ジョン・ブル
自分が浅はかでも、ちっちゃくても、馴染めなくても、嫌われてても。
私は、私を「愛する」と決めた。
私が決めた、そう決めた。
だから私は、私が「愛する」と決めた人を大切にするよ。

ユーガタ屋
誰かのため、自分のため
それが愛じゃないか[笑う]

あつし

ぎゃくりゅうさん
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