大学で国文を学ぼうとしている高3です。
皆さんは現代社会においての人文学の役割とは
何だと思っていますか?
個人的に人文学とは、人間に歩むべきの道を示し、人生をより豊かなにするものだと信じ込んでいましたが、最近になって、何か違うような気がします。
皆さんの素晴らしい御意見をぜひお伺いしたいです。

くりねずみ
猿が木に登ってバナナを取っているのを見たとき、自然科学者なら、猿やバナナや木を「物理的対象」として扱い、力・質量・エネルギーの関係から事象を説明しようとするでしょう。つまり、「なぜ猿が木を登れたか」を説明すると思います。サルの筋肉が収縮するのも、木との間で摩擦力が働くのも、バナナを掴む指の力も、すべては元をたどれば原子間の電磁気的な相互作用です。それらはすべて実在の最もコアな部分を説明する量子力学の法則に従っています。
その説明は確かに正確かもしれませんが、面白くはない。それよりも、「あの猿はバナナが欲しかったのだ」と言ったほうがはるかに現実的ですし、ずっと詩的に思える。これがいわゆる「人文学」というものです。
自然科学と人文学はときどき対立したもののように語られることがありますが、実際は違います。両者は異なる軸を持った体系、というよりは実在の異なるレイヤー(層)を説明している哲学の多様性と解釈するほうが近い、と私は思っています。
自然科学の役割が実在の最も根源的な部分を説明することなのに対し、人文学の役割はもっと表面的な層をテレオロジカルに説明することです。
ウィトゲンシュタインは『哲学探求』でこう述べています。
『事物の、我々にとって最も大切な側面は、単純でありふれているため人目につかない。(人はそれに気づくことができない、――いつも目の前にあるために。)』
つまり人文学の最も大切な役割は、この「いつも目の前にある」何かを見出し言語化する。ということになると思います。
デヴィッド・フォスター・ウォレスは、ある大学の卒業生に向けた『これは水です』というスピーチで、水と魚の寓話を話しました。それは川を泳いでいた若い魚が年老いた魚に「今日の水はどうだい?」と尋ねられるが、若い魚は水が何なのか分からなかった、というものです。
皮肉なことですが、人生において最もリアルで大切なものは、この若い魚にとっての水のように、最も見えづらいものなのです。だから私たちは、この現実を透徹した目で見つめ、絶えず自分に言い聞かせなければならない。
「これは水です」
「これは水です」
人文学における探求とは、まさにそのような価値ある営為だと思っています。質問者様が大学で良き学びを得られることを祈ります。

mon

サイダー
具体的には、博物館を運営したり、教科書をアップデートしたり、古文書や公文書のアクセス環境を整えたり。
これらは、消費者としての個人が金を払って知りたいかどうかに関係なく、国として誰かがやらないといけない、意義のある事業です。

西日好

🏃一三@逃げてーー

くちく
大学のゼミや研究室、演習で関わる人はもちろんのこと、文献を書いた人、出版した人、残した人、研究した人、その全てと対話していく学問です。
正岡子規は、自身の病床が書物に囲まれている状況を自虐的に獺祭と言いました。散らかっているというのは、まさにその通りなのでしょうけれども、孤独に思想を巡らしているようでも、時空を超えて他者と対話している。そんな状況が祝祭のように感じられたのかもしれません。
先人の思考の一歩先へ。そのエネルギーが文化を後世に繋ぎます。魅力的な学問だと思いますよ。

歴史の人
それが大事で、役割とかはあとからついてくるものだと思います
人文学出身だけれど、未だにそれを探す毎日です

愛善院
実学と虚学(純粋学問)とで考えると、国文は人文のなかでもかなり虚学です。原理や法則を実践的に役立てるのではなく、何かに自分や集団や社会が迷っているときに判断する材料を持つことが虚学の原理です。より真なる姿に近い、より善なるふるまいである、より美なる悦びがある、その選択判断をする価値観を醸造するのが虚学です。

たむい
大体の学問に通じると思いますが、他の学問の場合は、過去砂金が見つかった事がある砂浜で同じことをするイメージですね

マルコ・アモレッティ
もっとみる 



