偏見は悪か?
ガー

タイリー
紅金魚
頂けないのは悪ですね

名前

sin
エコーチェンバーを形成しやすいと考えます。同じ意見の人達とグループが出来、自分の考えが正しいんだと確認をし合う心地よい場所になります。Z世代としたのは、スマホからの情報が大きな影響を与えていると考えたからですが、このケースではグループをつくりコミュニティが生まれ人との出会い、交流が活発に行われると言う点で悪では無いといえます。
一方、コミュニティの考えに反対する人達に対しては意見を否定して攻撃を加え、他の意見を聞く耳を持たなくなります。自分達の意見が間違っているかもしれないと言う疑いを持たなくなります。これは人間に備わった偏見の悪い側面になります。

ゆー
特定の集団や個人で例えるのは、はばかられる為例えにしますと
例)四国に来た自分は森の中でガサガサという音に対して咄嗟に「クマだ!」と思いその場から直ぐに立ち去った。
しかし、九州に野生のクマは居ない。
実際の姿ではないですが「森の中でガサガサ」という音から【根拠の無い決めつけ】で直ぐに立ち去りましたね。
ですが、クマではないとするなら何故ガサガサと物音がしたのでしょう?
危機察知という面で見れば行動自体は正解だったのでは?
それが人間の【危機感知】した結果の仕組みです。何だかそんなに悪くもない気もしてきましたよね。
ここまで心理や脳の働きで偏見という言葉を説明しましたが、ここからは社会的な面で見てみましょう。
こちらは一転して望ましくない…悪というイメージが強いですよね。心の中に留めている部分を放出する事は【偏見】から一転して【差別】へと繋がります。
偏見自体が悪、というのではなく
自分の中にも偏見があるという自覚を持ってそれらをコントロールする。というのが大事な事なのではないかなと

ワタシ

アールディ
影響がなければ、悪ではない
だけど、偏見が善につながることがあるのだろうか?

ことみ
生理現象でしょ。善とか悪とかでは無いんじゃないかな。

ワシじゃよ、猛禽猛禽
たとえば、山に住んでいる人たちがいたとして、生きていくために、そこに生えているキノコを食べなければならなかったとしたら、そこでの生活を続けて、色々なキノコを食べていくことを経て、「こういう見た目のキノコが危険だ」というような憶測を立てると思う。これは、合っているとは限らないけれど、少なくとも、食べてしまったことのある毒キノコを避けることはできそう。これは、法則を見出しているから、科学的とも言えるかもしれないけれども、見た目で判断しているわけだから、偏見とも言えるかもしれない
この推論能力が、科学やら偏見やらに対して、良い悪いはさておき発揮されてる
翻って、「偏見が悪か」については、偏見が生じること自体は、前述のとおりある種自然なことだと考えられると思うけれども、これもまた前述のとおり、あくまで推論であって、訂正の余地が存在しうるわけだから、その変更の努力を怠ることについては、悪と言えないまでも、良くはないと言えると思う
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