他者の意見を鵜呑みにせず、自分の意見を通すだけではなく、相手の意見を聞き入れる。多少の齟齬があっても、受け容れる努力。【そういう考え方もある】と、認識する。 簡潔に書くと…【他責】と、【自責】の境界線を守る。
何か自分の利益のために自分の行動を組織したり意味づけるのが自我。他人の都合を考えず自分の目的のために行動する人を、自我が強いと言うよな。赤ちゃんはその点では自我が強いといえるけど、赤ちゃんは別に自分の行動を組織づけてはいないから、多分自我はない。成長するにつれて、自分に親切にしてくれる人とか、攻撃してくる人とかが、次にどんな行動をするのか予測するために、自我という概念を覚えるんだと思う。もちろん、これは意識的に覚えるというのではなく、多分遺伝的なプログラムとか、言語習得とかを通じて無意識のうちに身につけるシミュレーションみたいなもの。これが自我を習得するメカニズムだとすると、AIも最初は自我はないけど、それがなきゃ生き残れないような動機づけを人間が与えれば、多分自我のある振る舞いを身につけると思う。
デカルトのコギトエルゴスムではないでしょうか。我思う故に我あり。方法序説には、そのように書かれています。自我の証明としては、それで良いと思うんですが、生きていく時には使い勝手が悪い証明だと思うんです。これだと欲が発生しやすかったり、増上慢にやりやすかったりすると思うんです。我の名称は有るが、実体がない。自分という名称は有るが実体は無い。の方が執着が無くなり、執着が無くなるから欲が無くなり、欲が無くなるから災いが起こりにくくなる。車と言う名称があるが実体は無い。約3万パーツの組み合わせで車はできてるけど、何をもって車と言えるのか?ハンドルが車か?タイヤが車か?車軸が車か?私達はなんとなく車と言うものをこんなものだと認識していますが、実体はありません。エンジンが無い車体だけの物を車と定義しますか?私達の身体は約40兆個の細胞でできています。心臓だけがあなたですか?眼球だけがあなたですか?あなたという名称は有るが、実体は無い。デカルトより釈迦が唱えたこちらの方が実生活で使えると思うんですが、如何でしょうか?