人は何をもって人として扱われるのか?

どでぃ

きゅ
他生物がペットや食用、家畜や野生といった言葉で括られるのは言語が通じないからですし、昔話に出てくる鬼は一説には外国人が日本に流れ着き迫害された末のものだとされています。当たり前ですが鬼は人間ではありませんし、そう言われる、そう言い伝えられるということはそういう扱いをしたorされてきたという証左です。
あと、単純に話が通じない人に親しみを抱けるのか、という問題もあります。親しみとは思いやりや他人の扱いに通じるものがありますし。
話が出来ることは相手にも知性や考えがあり、人格があるという事を相互理解する事ですから、見た目が大いに違ったとて話が出来るなら酷い扱いをする事は躊躇われるでしょう。例え同じ人間であっても、理解出来ない考えと意味不明な言葉を発するなら、それを自分と対等に出来るのか、というと分かりやすいでしょうか。
人として扱うか扱わないかでいうと見た目が一緒なので扱う気もしますが、少なくとも同等のものとは見ないでしょうね。

カツミン
カガミ

憂い顔の騎士

朧月夜

MIYAVI
何故人として扱われていないと思うのですか?
人として扱えなえない方の人間性を問いたいですね。
天真爛マン
敬意を持たれなければ貶され蔑まれ、人として扱われることはない
学校生活を考えてもわかるように舐められないと言うのは大切である
身体の構造か同じか?
一部が欠損していても大丈夫であるが、ぱっと見で人であることを判断できない状態であると人として扱われるのは難しいだろう
意思の疎通が出来なくても植物状態の人間を全く人間だと思わない人はいないはずである

かなう
本質は「人は何をもって人として扱われるのか」ではなく「人は何をもって人として扱うのか」に集約される。
自身の自己と同じように他者の自己も認める姿勢と言動行動である。
昔、マルティン・ブーバーと言う学者がいて、人との関わり方を大きく2つに分けました。
「我-それ」と「我-汝」。
我とはもちろん自分の事。
相手を、自分と同じような自己を持った独立した存在として関わるのを「我-それ」と表す。
相手を、自分に従属する物として関わるのを「我-それ」と表す。
自我中心で世界を見ると、他人をNPC(Non-player character)のように扱ってしまう。他人は自分の世界の登場人物でしかない。
主人公は常に自分に固定される。「我-それ」の世界観がデフォルトである。
自我は、自分が他人と異なるのだと知り、環境や他者に欲求・要求を求める事で原始的なアイデンティティを得た状態である。
自己とは、社会や他者との関係性の中で規定される自他の差異と共通点を分ける事で生じる上位のアイデンティティを得た状態である。
自分と他者を対等として認知する事で得られる「我-汝」の世界観である。
ここで「我-それ」と「我-なんじ」の関係性のどちらが人として扱われる態度だろうか。
「我-汝」であろう。
自も他も同様に尊ぶ姿勢が人をして人とならしめている。
「我-それ」は自を尊び他を軽んじる姿勢である。

Chara(キャラ)
「人格」と「記憶」 という情報だけです。
これらの情報が揮発したならば
これを「死」と定義するのが妥当でしょう。
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