議論において、問いを疑わない人間に答えを裁く資格はあるのか
まず、第一に
議論とは、正しさを競うことではなく、正しさを探求することだと考える。
そして、そのためにはまず、何を明らかにするための議論なのか、互いに論点を共有する必要がある。
議論では相手の発言に対して問いを立てることもあると思う。でも、その問いを立てることが「その議論において必要なことかどうか」を考えられる人はどれほどいるだろうか?
互いに相手の主張を疑うだけ。こんな議論になんの意味がある?
自らの問い、前提も疑いの対象のはずだ。
いわゆる「レスバ」みたいな議論は
俺には幼稚園児のサッカーと同じように見える。
議論に勝者は必要ない。必要なのは、議論する前よりも答えに近づいていることじゃないのか?

サト
議論ってお互いの主張を出し合って
競走と共創で組み立てていくものだと思う
その主張が己の正しさだったり社会的な正しさだったりすることはあるけど
それとは別の問題として
問を疑うことの是非なんだけど
問を見る前から「問とは疑ってみるものだ」「疑うべきではない」を決めるもんじゃなくて
まず問を素直に読む
それにひっかかる所があれば「これってどうなの?」だと思う
レスバについては多くの場合が大別して二通り
自分の主張を言うことだけが目的か
相手の主張を否定することだけが目的で
論は論でも水掛け論、議論討論とは別物だと思う
対岸で燃えてるうちは気にしなくていいとは思う
それぞれ区切って見たらわかりやすいんじゃないかなと思うよ

ひーまん
現代では答えが一つになるように教育が行われているから、議論をするのには向いていないのかもしれない。
ただ問いを疑いすぎても疑心暗鬼になり、問いすら立てれなくなったり、仔細な問いを投げて本筋から外れることは避けたい

