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苦しさの基準は何ですか?

K太

K太

のぼり階段の段数
上り坂の傾斜度
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よしおじん

よしおじん

精神的苦痛
息苦しさ
過食

あとは何だろねー?
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風の音

風の音

心や身体の痛み、ストレスに耐えうる限界を越え始めた状態
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マックスペロペロ

マックスペロペロ

心が崩れた瞬間の心の悲鳴
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ノゾ

ノゾ

生きる苦しみの全てが欲望からくるのは間違いない。
だけど、大金持ちになりたい欲は満たされずともさほど苦しくない。
それは分を超えていることを自覚するからで、人は「せめてこのくらい当たり前に得られるはず」という期待が満たされないとき、より苦しむ。

つまりこの「当たり前」「最低限」のラインが、苦しさの基準になる。

《貪慾》と聞けば、巨大なものを求める異常な欲深さを思い描きがちだけど、そうではなくもっと素朴な、健康に生きていたいとか、たまの休息が欲しいとか、生き物として当たり前に求めてしまう最低ラインの欲を指すのだと僕は思う。

この最低ラインを「年収◯◯万円」とか「社会からの合理的配慮」とか「(ちょっとした逸脱を)多様性として(奇異の目を向けられることもなく)受け入れられる」とかへ引き上げてしまうから、より苦しくなる。
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むかで

むかで

欲の裏返しと考えます。
ですがその境界は曖昧でしょう。
痛痒いとか痛気持良い時もありますしw
助けが欲しいか?が基準なのかもしれませんね。
他者にも自分にもですがわたしは、
苦しい時には欲を
貪る時には苦を聞きます。
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世紀末覇者ラ王

世紀末覇者ラ王

私の場合、苦しさに一律の基準があるとは考えていません。

苦しみは「関係の中」で生まれているのかもしれないと思っています。

例えば私は、「相手にはこうしてほしい」と思っている。

でも相手は違う行動をする。その時、私は苦しくなる。だからといって、

「相手=苦しみ」

ではない。

逆に、

「自分の考え方=苦しみ」

でもない。

私の期待と、相手の行動。私の価値観と、社会の仕組み。私の身体と、置かれている環境。私が望むことと、現実に起きていること。

その間にズレが生まれた時、

私はそれを「苦しい」と経験しているのではないか。

そう考えています。

つまり私にとって苦しみとは、どこかに固定されて存在しているものではなく、自分と世界との関係の中で成立している現象なのかもしれないと。

だから条件が変われば、苦しみ方も変わる。相手が変わらなくても、自分の捉え方が変われば違うこともある。

逆に、自分がどれだけ考え方を変えても、環境そのものが厳しければ苦しいこともある。

どちらか一方だけが原因とは限らない。

ただ、その時その場所で、「苦しみ」という現象が成立している。

だから、「私は苦しんでいる」と「私は苦しい人間だ」は違う。

「私は今、苦しんでいる」

これは現在の状態についての言葉。

でも、

「私は生きづらい人間だ」

「私は人間関係が苦手な人間だ」

「私はいつも傷つく人間だ」

となると、少し意味が変わる。

現象だったものが、自分自身を説明する言葉になっていく。

一度、

「私はこういう人間だ」

と思うようになると、その自己像を通して次の出来事を見るようになる。

少し人間関係でつまずけば、

「やっぱり私は人付き合いが苦手だ」

となる。

何かうまくいかなければ、

「ほら、やっぱり私は生きづらい人間なんだ」

となる。

苦しみという現象が、

自分を説明する前提へ変わっていく。

そして、その前提からまた次の出来事を見てしまう。

私は、この循環が苦しみをさらに固定してしまう場合もあるのではないか、と思っています。
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