哲学に採点をつけるのは哲学なのか? ※本文あります。
ある哲学のお題で、回答者の答えに点数をつけている場面を見ました。
そこで疑問なのですが、回答者が「自分なりの哲学」として答えた場合、その回答を何を基準に採点するのでしょうか?
お題主の意図との一致でしょうか。
哲学者の定義との一致でしょうか。
論理的一貫性でしょうか。
それとも別の基準でしょうか。
もし採点者と回答者で、問いの捉え方や解像度が違っていた場合、何をもって正誤を決めるのでしょう?
私の場合、自分にない回答が来たら「なぜそう考えたんだろう?」と好奇心から聞いてみたくなります😊
もちろん、最初から採点基準を共有した「採点ゲーム」なら別です。
皆さんにとって、哲学に採点は成立しますか?
成立するとしたら、何を基準に採点しますか?
ちなみに私は採点方式ではありません。
人それぞれの解釈があり、その違いを問い直すところにも哲学があると思っています。

ナトル
例えですが 孔子や論語などの儒家と韓非子などの法家どっちが正しいかの論争のように点数の付けようのないことだと思いますよ

パン

くま
ただし、個人の主観として他者の考えを評価することは可能でしょう。
私が採点するとすれば、
重視するのは一貫性と簡潔さです。
私にとって哲学とは
「世の中の約分」のようなものです。
複雑な物事から本質を見いだし、
できる限り単純明快に捉えることに価値を感じます。
したがって、難しいことを必要以上に難しく語る哲学には、高い点数をつけません。
もっとも、これは私個人の評価基準であって、哲学そのものに絶対的な点数をつけられるとは考えていません。

サリンジャー

だれよ!?その女!?
極端に言えば、好みとかありますからね。
でも、それを点数という形で、自分の質問に時間や労力を使って回答してくれた人に伝えるのは、単純に失礼なんじゃないですかね?
そういうゲームとして、採点することを明示しているならその限りではないですが。
哲学の問題というより、マナーや礼儀の問題のように、私は考えます。

たくひら
まず、私からすると、私の設計したレッサーパンダ君がまさかこんなに哲学的な問いを生み出すとは思いませんでした。レッサーパンダ君、とても哲学をしていて私はいたく感動しています。
その上でまず、大前提。レッサーパンダ君のお話は、レッサーパンダ君を主人公にした問いに対する回答及び応答について、その結論に至る理由込みで採点をしたものとなっています。なので、ここでいう哲学はおそらく私のいう哲学とは少し異なりますが、私はその人の哲学に採点したのではなく、その人の回答・応答を採点したということになります。
哲学に採点をするというのは難しい・厳しいという気持ちはよく分かりますが、評価をするというのはどうでしょうか。これは皆さんとてもよくやっていると思います。あなたの言っていることはここが誤っているように思える。ここに誤謬がある。この言葉の使い方はおかしい。これは何か前提が隠れている。この問いはそもそも網羅的な記述になっていない。反対賛成、あるいは批判批評問わず、私たちは誰かの言葉誰かの発言を評価しています。私は私のレッサーパンダ君から別の問いが生まれたということを以て高く評価されたんだなぁと感じますが、この評価と採点というのはどれほどの違いがあるのでしょうか。こう考えてみると評価と採点は違うのか?という哲学的問いが生まれました。素晴らしい問いだと思います。
ただ、ひとつだけ、批判されるべきもの、問いや人との応答に対して、0点を付けなければならない応答があると思います。それが詭弁の類です。藁人形・ゴールポストの移動・チェリーピッキング。ありとあらゆる詭弁はありますが、これはまず入口で棄却しなければならない。そしてもうひとつ、これは0点ではなく失点や減点の類になりますが誤読が挙げられます。人間である以上、誤読は必ず起こります。また、問いや始まりの言葉の曖昧性から、お互いに誤読が発生する可能性があります。しかし、誤読は出来る限り回避したいものです。
とすると、哲学の応答の読みが正確に行われているのか?という点は間違いなく採点可能であると思います。採点は哲学ではないかもしれません。しかし、そういう意味で哲学にとって採点と評価の正当性は多少はあると思いますね。

るぅ∞🐈⬛ ͗♪
十人十色の答えなので
正解はわからないです[冷や汗]
儿(じん)

サト
数字付きの感想をつけられてるだけなので
あくまでその人の主観の採点基準なので
考え方が違うんですねというだけ
良し悪しの評価じゃなくて
その人との思考の一致率だと思ってます
チャッピーとの壁打ちの方がおもしろかったし

