自分を疑う時、つまり思い込みと事実を区別する時に、比較対象となるのは「正しい/間違い」ですか?それとも「自分がどう在るか」ですか?※本文あります。
たとえば他者とのすれ違いがあった時、
自責・他責として「自分が悪い/相手が悪い」と捉えますか?
それとも、自分にも相手にもそれぞれ落ち度があったことを認めた上で、
「では自分はどう受け止め、どう在るか」を考えますか?
それとも両方ありますか?
どちらが正しいとか正しくないとかにはこだわっていません。
あなたが内省する時に、どのような判断をしているのかを回答していただければ嬉しいです。

jwB
何を重要に考えて答えを出すか
自分にとって相手を傷付け合うのか
思いやるのか 人生悩むのは
自分の人生の攻略本がないから
自分で攻略本を作るしかない
攻略本を作れば何も怖くない
思い込みでも自分の考えを述べる
間違いなら謝るだけ

tetra

やまだ(仮)
他者については、結局のところ想像することしかできないと思っています。相手が何を考え、なぜそう感じたのかを推測することはできても、それを事実として知ることはできない。
一方で、自分については、自分がなぜそのように感じたのか、どうしてそう考えたのか、相手に対して何を思ったのか、といったことを内省します。
なので、私の場合は「自分が悪い/相手が悪い」という正誤を判断することが内省の中心にはならないと思います。もちろん、正しい/間違っているという判断を相手と共有することはできます。ただ、それも関係や出来事、立場や視点によって変わりうるものなので、それ自体を一つの判断軸にするのは難しいと感じます。
むしろ、自分については「自分はなぜそう受け止めたのか」「なぜそう考えたのか」「そのとき相手をどう見ていたのか」を考えることのほうが多いです。
なので、質問にある「自分はどう受け止め、どう在るか」というほうが、私の内省の仕方には近いと思います。

🎮💧

かずら
別解をくれぇ…(別解を探して彷徨う姿)

蘭
まずは、自責で…反省…

パン
ズブロッカ

たくひら
事実って自分と他者が共有できる形で「検証」とか「確認」とか「合意」とか「資料確認」とかしないといけなくないです…???え、これちょっと純粋にどういうことになっているのかわからないですね…

サト
「どう在るか」に近い
自分も間違うし相手も間違う
どちらも正しいこともある
なら照らし合わせるのは
事実実際どうなってるのか
視点が違えば
同じ自称も違う結論というのは多々ある
どう在るかというより
「どう在りたいか」だけど
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