生まれた時からVRゴーグルを付けてる人がいたとして、この者がVRゴーグルを付けていることを知覚できなければ、この者はVRゴーグルの世界を世界そのものと認識するか
顕微鏡を覗いているのに、顕微鏡の存在を知覚できなければ「世界そのものを見ている」と思っているような状態になるのではないか。
観測主体は、対象や世界を本当に直接見ているのか。
それとも、VRゴーグルの映像や顕微鏡を覗いているだけなのか。
人間が、外すこともできず、知覚することもできないVRゴーグルを付けているとしたら、その観測は他者と同じ物が、他者と同じように見えているのだろうか。
👻

バード

けい
麻痺している前提で触覚はないとして、聴覚からなんの情報を得るかにもよると思いますが
VRゴーグルって確か体の動きで視野が変わると思うのですが、動かないならそれも、生まれたときからそうなら違和感はないと思います
子どもたちはママ友の軋轢を知らず、自分が見たシーンだけで親同士も仲がいいと思い込みますし
周囲に笑顔を振りまいていた人が突然自死することも似たような話かと
自分が見たり聞いたりしたことしか知れない
それを鵜呑みにして生きるか、本当にそれだけなのかと疑うことを知っていて考えながら生きるか
それによるかと思います

UPON
地球が平面と教育されたら信じるでしょうし、実は今いる世界もバーチャル空間かも知れないし…。

ヒトリゴト
世界は自分の感覚というVRゴーグルをつけた世界です。
嫉妬や妬み、容姿から性格まで、自分の都合のいいように捉えていますよね。

こう

世紀末覇者ラ王
ゴーグルの有無で、認識の仕組みそのものは変わらない。変わるのは入力される現象と、そこから生成される概念である。比較対象がなければ、本人にとってその世界はただの「世界」になる。
というものです。
今回はお題に「ゴーグル」としかないため、ゴーグルから入力される視覚だけを体験している状態として、認識論的に考えます。
人間は、自分がどのような認識機能を使って世界を捉えているのかを、その認識機能の外側から直接見ることはできません。視覚情報を脳が処理していることは科学的知識として知れても、その処理そのものを主体として眺めることはできません。
この意味では、ゴーグルを装着していても、していなくても、
入力された現象を認識機能を通して「世界」として捉える
という構造は同じだと思います。
違うのは入力です。
今回、触覚・味覚・嗅覚・聴覚そのものを体験できない前提なら、それらが「ない」という認識すら生まれません。触覚を知らなければ「触覚がない」、音を知らなければ「音が聞こえない」と比較できないからです。
つまり比較対象がなければ、「足りない」「おかしい」という違和感の概念も生成されません。その人にとっては視覚だけの世界が、ただの世界になります。
ただし過去に五感を経験していれば、記憶との比較によって違和感は生まれ得ます。
そしてこれは現実でも同じだと思います。同じ対象を見ても、そこから生成される意味まで同じとは限りません。
同じ対象を見ることと、同じ意味で捉えることと、同じように感じることは別である。
だから私は、認識構造は共通していても、そこから生成される世界の意味はそれぞれ異なり得る、と考えています😊

ゆな
仮にVRゴーグル、VRゴーグルを外した世界、という知識を与えたとしてもVRゴーグルを外せないなら信じないのでは。

風の音
脳から直結して外界にむき出しになっている器官が“目”です。
視界の情報を取得し、それを脳が処理して認識するのですが、信号を青や緑に見える人がいるように、ゴーグルをかけていなくても実質的に人それぞれがそれぞれのゴーグル(脳)をかけているので違う色や景色だと自分は思います。
黒を何種類も見分ける人もいますしね[笑う]

じゃんく
でも今見えてる世界が本当に世界の全てなのか?
と疑う人もいる。
今見えてる世界が世界の全てな訳じゃないと思う人もいる。
でも、「今見えてる世界が世界の全てではないこと」が世界の全てなのかどうかは俺も分からない。
さらに、「今見えてる世界が世界の全てではないことが世界の全てではないこと」が世界の全てなのかどうかはもっと分からない。
世界の一部である限り、世界の全てには到達できないっていうのが今の俺の感覚。
本当に世界の一部なのかどうかについては、、、
あとで考えとくよ笑
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