第三者を批判する行為自体も、その批判が向ける第三者性から逃れられないのではないか?(本文あり)
一概です。
よく投稿やリプ欄同士を見ると異なる意見の衝突が互いに起きているのを見かけます。
ただ「口喧嘩だ」「同類だ」とそれが頭から離れず漠然とした状態で片方或いは両者を蔑視し、第三者に代わって同席しようとするのがここのコミュニティで改善しない対立問題の一つだと思います。また、程度の低い争いと程度の低い解釈で傍観する者を除く。
その第三者が介入しこれからする目的や矛先といえば和解、擁護、断定、個人の思想など四つの入口に区分すれば、結末などは容易です。
また、両極端に見られる第三者の特徴として、対立という先入観に「議論」や「生産性」という意識から限りなく遠い方も居れば、典型的で客観的に物事を把握でき、私のような文体を二文程で拵え多くの事を他者に理解し、説得という言葉に近い形で争いの終止符を迎えることが出来る大才も存在します。
ですが、私から言えば第三者という立ち位置は説得力も弱ければ大した責任感も伴わず、免罪符を腰に巻いて良かれと思い行った今までの善行も行く末には偽悪となり得ます。更には大衆がいいねや賛辞と付せば、そしてそれが称賛の嵐に変わればそれは偽善と化し得る逆説なのは明々白々じゃないですか。


