人をコントロールするためには(本題は別に回答欄に書いておく)
人をコントロールする手法って色々あると思う。
俺の中にもその手法の1つについて考えがある。
この手法の肝は選択権をどうやって自分が手に入れるかについてだ。
流れとしては、
まず、選択権を相手に渡す。ただし、選択肢は俺が設計する。
そして、その後上手くいかなかったり失敗したりしたとしよう。
その時、その責任を相手に置く。「お前が決めたことだ」と。
こうなると、自分の責任にされたくない人はどうするか?選択権を放棄する''選択''をするだろう。
その上で俺が選択権を持つ。
そして、選択肢を設計する権利については既に俺が持っているから問題ない。
こうやって''文句は言うけど結局従う人間''が出来上がるんだ。
理屈としては、「選択権を持たないことを自分で決めた人間に、俺のやり方に指図する権利などない」というもの。

ナトル

pophat
自分のことすら驚かして笑かす選択をすることが、とりあえずコントロールされているかとか細かいこと気にせず心が自由でいられることじゃないでしょうか[ほっとする]
見習い
人間は肉体や物理法則など、様々な制約の中にいます。しかし、その制約があるからこそ可能な行動や選択肢も生まれます。
さらに、選択肢を自分で作る自由も、より上位の制約の中で成立していると見ますね。
例えば「誰にも邪魔されず好きな場所へ行く自由」は、「他人を拘束・妨害してはいけない」という制約によって守られています。
自由とは、選択肢の数や無法状態ではなく、制約の中で自分が選択の主体であり、必要なら選択肢そのものを広げていけることだと思います。
なので私も、「選択すること」も「選択肢を設計すること」もできない状態は不自由ではないかと思います。
ただ、現実には完全にそうなることは難しいと思いますね。
人には、与えられた状況をどう解釈するかという選択肢を自分で作り、それを選ぶこともできると思いますから。
そして、自由には、責任が伴うという話にもなりますかね。

Jotak
そして、自由は“自由度“がある相対的なもので、自由!自由じゃない!とコインの裏表の様な二元の概念じゃない気がします

じゃんく
どれだけ自由に見える人間も、人間である限り「肉体を持つということ」による制約がある。
つまり、選択肢が無限という訳ではない。
しかし、それでも十分に自由だとは言えるだろう。
ならば、どれだけ選択肢を持っていれば人は自由だと言えるのか?
選択する自由はあっても、選択肢の設計ができないのであれば、それは自由と呼べるのか?
選択肢の設計はできなかったとしても、選択肢が限りなく多いのであれば、それは自由と呼んでも問題ないのか?
少なくとも俺は、
選択することも選択肢を設計することできなくなった人間が自由だとは思えない。

