思いやりは道徳。では、あなたにとって道徳は「義務」ですか? 「思いやるべき」と言った瞬間、それは自発的な道徳から義務へ変わるのでしょうか?※本文あります
※ここでは道徳の一般的な定義ではなく、あなた自身が「これは道徳だ」と感じるものを基準にお答えください。

らき
しかし、そもそも自発的な思いやり自体が無意識のうちに義務だと感じていると思っています。
実際なくてはならないものであり、ないと生きていけないものであることから、無意識のうちでは義務だと感じているのだという憶測です、
げるん

sin
道徳が自分の心にあるなら「べき」つまりしなければならない「強い気持ち」と考えます
例えば
優先席に明らかな健常者が座っていて、100歳程の老人がその前に立っていた場合、「思いやるべき」だろうと誰しもが思う
そこに義務の概念は存在しないと考えます

Jaco_ten
ガー
たれぱん
もし、困っている人がいたら、助けてあげたいと思います。まぁまぁ声を掛けますが、まぁまぁのあたりで、少し「義務」から外れるかも。
困っている人を助けられたら、ちょっと気持ちいいかな。声をかけなかったら、少し後悔するかな。
私のルールは以下の3つです。
人に迷惑を掛けない。
人が喜ぶ事をする。
自由に行動する。
これは義務ではなくて心構え的なゆるいもので、行動の方向性を決めてます。
「思いやるべき」と思ったら、義務になっちゃうかな。自発的な場合の「思いやり」は、「べき」が伴わず、自然に行動に移すことかな。と思ってます。
「べき」が入ると、他の人にも求めたくなりそうなので気をつけるようにしてます。

紀文屋
確かに『べき』という言い方や考え方は義務的であったり強要的な意味合いになりやすくも思います。
“そういう空気”に耐えられず行ったであろう行動も、最終的に自らで“選び行動した”のであれば、私は自発的だと思うことが多いです。

たくひら
ここまで話してきていて、ひとつだけすごく気になることがあります。どうして、道徳の話をする際に功利的選択や倫理、社会的眼差しなどの個人的選択の話を飛び越えて「義務」と言い出したのでしょうか。例えばアダム・スミスの「道徳感情論」はまさに「道徳」の話ですが、一気に義務の話にはなっていません。これはカントの「義務論」に影響を強く受けた問いのような気がします。なので、ここから発展するための概念をひとつ紹介しておきます。近年の倫理学の議論に「moral luck」という概念が議論されています。これの中身については、興味がある人はぜひチャッピーやClaude君にその内容とカントの義務論の関係性について聞いてみてください。

とと

ノゾ
すると人間として当然に備わるものを備えていることもまた、義務といえる。
人間には四肢や五感が備わるのと同様、生まれながらに備わった社会性や利他性といったものがあり、そこから生じた「人たるもの、当然かくあるべし」が道であり、これを学び拡げたものが徳であり、あわせて道徳という。
我々の内側には、そうせよと命じる部分があって、その部分が強いる力による苦痛を我々は後ろめたさとか恥として感じている。
従って、道徳は義務だと言える。
この義務に従うことは、しかしその命じる部分が自分自身の裡にあることから、自発的であると言える。
そのため、ここで自発と義務とは対立しない。
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