あなたが今「当然そうだ」と思っているものの中で、本当に証明できるものはいくつある?
これは、自分の中の「当たり前」を一度疑ってみるための問いです。
常識、正しさ、善悪、幸せ、成功。
自分はこういう人間だという認識も、
人から見られている自分も。
私たちは知らないうちに、
何度も聞いたことや、
長く信じてきたことを
「事実」として受け取っていることがあります。
でも、それは本当に事実なのか。
それとも、
ただ「疑わなくなった前提」なのか。
あなたが当たり前だと思っているものを、
ひとつだけ疑ってみてください。
その「当たり前」は、
いつからあなたの真実になったんだろう。
げるん
ゴミの分別もそうだがお育ちですね

レタス
脳に電極刺されて幻覚見えてるだけなら全てが偽り

fumi
意訳して「いくつある?」ではなく「どの程度の割合?」というのなら、ほとんどない。
極論には日常生活を持続させるには不可欠な物理法則(例えば地球の自転など)はどこまで遡れば証明と言えないという立場があり、もっと極端には証明は結局人間側が判断するものなので、ヒューマンエラーを起こし得る人間、更にはバグを起こし得る機械も、完璧な証明は不可能という立場もある。僕は割と前者に近い立場。
まあ物理法則とか諸学問の基本側の法則は証明なしに認めてもいいとしてもなお、「自力で」証明できるものは少ない。
なぜ証明もできないものを「当然そうだ」と思うか、という問いにまで答えると、証明の労力に対してこの世界が広すぎるから。確証が薄くとも信じないと、人生は時間が足りなさすぎる。不老不死なら全ての物事に証明を求めにいけるのかもしれない。

ノゾ
自分が存在していることを他者に証明することすら、覚束ない。
ただ、たとえば表があるとき必ず裏があるという前提には、そもそも証明が要らないと思うので、それを基準にした演繹で語れる事柄ならば証明できるように思う。

世紀末覇者ラ王
その時の自分が、過去の経験や他者、社会、自分の価値観や目的、その時の関係性と照らし合わせた末に、採用した判断なんだと私は認識しています。
だから私は「当たり前を疑う」というより、
「それは一度、自分の中で決断されたものだからこそ、必要なら再決断できる」
と考えています。
たとえば、
「仕事は続けるもの」
「家族はこうあるべき」
「自分はこういう人間だ」
こうした認識も、絶対的な真理というより、
その時の自分が置かれていた状況や関係性、比較軸の中で採用した結論なのだと思います。
だから、今の関係性や条件が変われば、
その結論も更新していい。
私は自分も含め、
人が「当然そうだ」と思うまでには、
経験
↓
比較
↓
納得
↓
採用
↓
反復
↓
当たり前化
というような流れがあるのではないかと考えています。
つまり、「当然そうだ」と感じているものも、
最初からそこにあった絶対的な真理ではなく、
関係性の中で比較した末に自分が採用した決断に過ぎない。
そう捉えると、
「今までそうだったから、これからもそうでなければならない」
とは限らなくなる。
当たり前は積み重ねた経験だから、必要なら、今の自分でもう一度決め直せる。
それが人それぞれの当たり前だと私は思っています。
あくまでも、私なりの持論ですが😊

