貴方の、自己を対象とする自己の観測は、神の視点ですか?それともピントが合わない望遠鏡で不鮮明な対象を捉える不確かなものですか?(本文あり)
人はなぜ尤度判定や仮説ではなく、確定の形で情報を持てるのだろうか、認識を作れるのだろうか、という疑問から作問しました
短文回答ではなく、なぜそう思ったのか、そのように答えたのかの思考の痕跡等も記述していただけると嬉しいです
私は◯◯である
あの人は△△である
これは仮説ですか?尤度判定ですか?神の視点ですか?
とƕとƕ丸
私は今から通勤で小川の畦道を歩きます。
それを『畦道』という言葉で認識している人は日本人だけですが、日本人にも知らない人もいるよね。
日本にいるからこそ日本人だけに通る、我々はそんな少数派なんです。足元のたんぽぽは、そもそも自己を花として認識してなくて、我々が勝手にそう認識しているだけ。
要するに、世の中の100人中100人、そういう認識を変換するサングラスをかけて生活しています。
それはそれが幸せだと錯覚します。
本当の幸せは『うわあ♪』お花だ!の、うわあであり、おぎゃあであり、ワンワンであり、カアカア。ニャー。です。
誰もが感動すると思いますが、それでも皆様はまだまだです。
例えば、目の前をゴキブリが通過しました。蛆虫が蠢いています。本来はそれらもお花と一緒で感動です。が、みなさんは認識や知識からくる境界線を作っていて、それを踏み込んできたら頭の中でアラームが鳴るように設定してますよね。
ですから、本当の幸せを実感できる人って、ほんの少しです。更に人間以外の生きとし生ける者は、そこが常です。
人間も努力した人はたくさんいます。しかし完璧にできる人間はいません。お釈迦さんは80年生きましたけど、1日足りとも完璧に出来たことは無かったと言ってます。
そして、そして、そして…
我々には無理なんです。例えば山中に真っ裸で近づいたら『ヴヴー‼️』と、威嚇してくるような人間って幸せかもしれませんが、自他の認識、知識や執着や欲や言語で埋め尽くされた世界では、それはただの変人で逮捕されるだけです。
では、何をしたら良いのでしょうか。
それは、常に見えないサングラスをかけて生活していると、『実際に体験して気付くこと。』
そこが第一歩です。簡単です。飾る事の無い、お空、花、川、空、それを見て『うわあ』。そこに転がってます。一瞬だけ、外れている瞬間が存在しているんですよね。
知識として頭に納めるのは、蛆虫以下の私が綴る、欲に塗れたその這い跡を崇め奉るって事で、ゴミ以下の価値しかありません。だから、みなさん実践しましょ♪
では、行ってきます( ´•ω•)ノ
げるん
視力検査と一緒
老いたら変わる

ナトル
神的な目線というのは自分を見るときに多いですね あくまでも他人を見るときは外野の目だと思っております

pophat

サト
客観とか俯瞰とかって答えたくなるとこなんだけど
じゃあそれはなんなのかというと
他人からはどう見えてるかな?という
擬似的な第三者を立てた想定的な視点
主観のポジションのコントロールかなと思う
例えてイメージするならドローンカメラ

世紀末覇者ラ王
人は出来事をそのまま受け取るのではなく、これまでの経験を前提として、そこから尤度を見積もり、仮説や時には思い込みを作ります。ここまでは主体の概念形成です。
だから人と人との間ではズレが起こります。相手もまた、自分とは別の経験と前提から認識しているからです。
例えば「親父」というラベル自体は共有できます。しかし、そのラベルに圧縮されている概念は人によって違います。ある人には憧れ、ある人には軽蔑、ある人には尊敬かもしれません。
問題は、自分の中で形成されたその概念を、自分だけの認識だと気づかず、対象そのものの絶対的な性質だと扱う時です。
その時、人は自分の観測位置を消し、あたかも対象を直接見ているかのようになります。これが、ここでいう「神の視点」に近いのではないでしょうか。
人間は主観から完全には逃れられません。だから、仮説・尤度判定・神の視点化は、程度の差こそあれ、誰にでも自然に起こる認識現象だと私は考えています。

