「比較」と「対比」みなさんは自己像や相手像を見る時、この二つを混同してはいませんか?※本文あります。
私は「比較」も「対比」も悪いものだとは思っていません。自己像を認識する時、相手像を認識する時、どちらも必要になる場合があると思っています。
ただ、比較によって違いを認識しているだけなのに、いつの間にか対比として「自分は劣っている/相手が悪い」と二項化してしまう。そこから自責や他責が生まれることもあるのではないでしょうか。
私の持論では、認識の過程で「比較」と「対比」が混同されることで、自己像や相手像の見え方が固定され、迷いや評価につながる場合があるのではないかと考えています。
みなさんにとって「比較」と「対比」は、自己像や相手像を認識する時にどのように働いていますか?
※あくまでも認識論としてのお題です。辞書的な言葉の定義ではなく、「主体が自己像や相手像を知る時に、比較と対比をどう使い分けているか」という意味で聞いています。
げるん
類は友を呼ぶから
たれぱん
「比較」や「対比」は目的が必要と考えます。
私の場合を例に考えてみます。
私が困っているときに上手くいっている人がいれば、自分と上手くいっている人を「比較」します。この時、相手像は認識しますが、目的があるので、若干感情的要素が入りそうな「対比」という感じはありません。なので、特に迷いは感じません。
迷いが生じるのは、、、
恐らく主体である私と相手が客体ではなく、私と相手の2人が客体で、その2人を比較するもう一人の主体の自分がいるのではないでしょうか?
私は意図せず楽しそうな人を見て、「いいな」と反射的に思うことはあります。その時は「対比」しているかもしれません。ただ、それで終わりにするようにしてます。
別に人の幸せを見て、私が不幸せに感じてしまうのはアホらしいと思ってます。

フレム・チェンバース

サト
比較と対比の違いの問題なのか
比較や対比の善し悪しを問いたいのか
比較や対比をどう扱ってるかを問いたいのか

若
比較→客観
対比→主観
に置き換えができるかと思います。
あとは自分がどの位置に立って見ているのかを認識するだけなんじゃないですかねぇ~?
(・∀・)しらんけど

ナトル

