全能のパラドックスについて。全能神が「持ち上げられない岩」を造った後に、その岩を持ち上げられるようになる超進化的性質を持つ場合、全能性は否定されるか(本文あり)
進化・克服し続ける存在が居る。
ヒト、ウイルス、AI…𝒆𝒕𝒄.
時間軸と超進化的性質という概念を導入した場合、全能のパラドックスはどのような解釈余地が生まれるか。
█全能のパラドックス
「神は自分が持ち上げられない重い岩を作れるか」という問いは、哲学や神学で全能のパラドックス(全能の逆説)と呼ばれる有名な矛盾の問いです。


フレム・チェンバース

月の熊
全能神とは絶対的な意志を具現化出来る存在だと俺は思ってる…。
そもそも全ての世界を構成する原子は原子核とその周りを回る電子の数の違いで構成されているがその姿は拡大すると球場の真ん中にソフトボール位の原子核の周りを球場の1番外側の距離で電子が回っている。
その位にスカスカの状態の原子で構成される全宇宙の物体が何故そのままの状態で存在出来るのか?
何らかの意志が働いているから、としか俺は思えない。

シズ
「神は本当に全能なのか」という宗教的な話から少し離れると、全能のパラドックスは「能力」と「自己矛盾」の問題として見ると、とても面白くなります。
「私は、自分の意志で絶対に自分の意志に逆らえる」という能力を持っているとします。
これはかなり変です。
「自分の意志に逆らう」ということ自体を、自分の意志で行っているからです。
能力が大きくなりすぎると、その能力そのものが自分自身を否定してしまう。
これが全能のパラドックスの面白いところです。
さらに哲学的にすると
実は問題は、「全能者に何ができるか」ではなく、「そもそも『何でもできる』という言葉は意味を持つのか?」というところにあります。
「何でもできる」と言った瞬間に、「何でも」の中に「自分ができないものを作ること」まで入ってしまう。すると、「できる」と「できない」が同時に要求されてしまう。ですから、全能のパラドックスは、「能力の限界」ではなく、「言葉の定義の限界」を突いていると考えることもできます。
そして、ここからさらに面白い哲学に進めます。
「全能」と「自由」は本当に両立するのか?
「何でもできる存在」は、逆に「何をするか」という選択肢が多すぎて、自由とは何なのか分からなくなる――という問題です。
この方向に進むと、かなり深い哲学の話になります。
少し言い換えると、「全能」という言葉を、どこまで広げてよいのか?という問題なんです。ところが、「自分でも持ち上げられない石を作れるか?」となった瞬間におかしくなります。
「作れる」なら、その石を持ち上げられない能力者になります。しかし「作れない」なら、「何でもできるのに、作れないものがある」ことになります。つまり、「全能」という言葉の中に、互いに矛盾する要求を入れてしまったわけです。
哲学者の中には、「全能とは、論理的に可能なことをすべてできること」と定義し直す人がいます。「できない」のではなく、そもそも論理的な意味を持たないと考えられます。
全能 = 何でもできるではなく、全能 = 論理的に可能なことなら何でもできるとするわけです。
この考え方をすると、全能のパラドックスはかなり解消されます。
たれぱん
見習い
そもそも「持ち上げられない岩」という性質は、それ単独で存在するものではなく、重力や質量など、その世界を成立させている法則の上に成り立つものです。
例えば、ファミコンの性能では現代の3Dゲームを動かせないとしても、それはファミコンというハードウェアの内部にいる存在にとっての限界です。ファミコンそのものを設計した人間まで、その性能限界に拘束されるわけではありません。
同様に、全能者が世界の法則そのものを創造した存在であるなら、「その法則の中では持ち上げられない岩」を作ることは可能でしょう。
そして、その後に法則そのものを変更すれば、その岩を持ち上げることも可能です。
つまり、
「持ち上げられない岩を作れるか」
と
「その岩を永遠に持ち上げられないか」
は別の問題です。
質問では「超進化によって後から持ち上げられるようになる」という設定がされていますが、私としては、そもそも超進化すら必須ではないと思います。
全能者が時間や物理法則そのものを創造・変更できるなら、能力が進化するのではなく、単純に「持ち上げられない」という条件そのものを変更すればよいからです。
したがって、この問題で本当に問うべきなのは「持ち上げられない岩を作れるか」ではなく、
「全能者自身が、自ら創造した世界の法則に拘束されるのか」
ということだと思います。
もし全能者が世界の法則の内側にしか存在できないのであれば、確かに全能性には問題が生じます。
しかし、全能者がその法則を作った側であり、必要に応じて法則そのものを変更できるのであれば、「持ち上げられない岩」は全能性を否定する反証にはならないでしょうね。
むしろ「持ち上げられない」という概念自体が、神にとって絶対的な制約なのか、それとも神が世界に設定した一時的な条件なのか、という点を分けて考える必要があると思いました。

セナ
むずかC

ユウタ
全能神が持ち上げられない岩って言って作ったものを、更なる全能で持ち上げれるようにしただけでしょ?
それは全能神にしかできないことなので、それを見た我々人間にはわからない事ですよね。
例えば1gしかないのに人間は持ち上げられませんでした。
でも全能神は持ち上げました。
全能だからなんでもありで、人間には理解できませんってだけの話で、全能を否定できないですよね?
それが答えですね?

たくひら
ここでいう全能性とは「絶対的な力」を想定しているものであり、相対的評価外に存在する。言ってしまえばギリシャや日本の神ではなく、シヴァ神やヴィシュヌ神のようなものを想定していると思います。比較対象なり得ないから「○○出来ない何か」という存在を生み出すことが出来る。おそらくそういう話です。
Sana ✨

世紀末覇者ラ王
例えば、
「どんなものでも持ち上げられる力」と
「全能者でも持ち上げられない岩を作る力」
が、どちらも同じ“全能”から生まれる絶対能力だとします。
この場合、片方だけがもう片方を上回ることはできないのではないでしょうか。
つまり、
「全能者でも持ち上げられない岩を作れる」
という時点で、岩を作る能力が持ち上げる能力を上回っています。
ならば、その時点ではすべての能力が同じ絶対水準にあるとは言えず、完全な全能ではないことになります。
そこから時間が経ち、成長や修行などによってその岩を持ち上げられるようになったとします。
これは「過去の全能性が否定された」というより、そもそも過去の時点では完全な全能に到達していなかった、と考える方が私には自然です。
そして、
もし全能が進化によって獲得されるものなら、
「全能者が進化した」というより、
「全能へ近づく過程で能力が更新された」
と捉えることになります。
私にとって完全な全能とは、
どの能力も他の能力を上回らず、すべてが絶対水準にあり、それ以上の更新余地もない状態
なのかもしれません。
なので私は、このお題を考えていく中で、
「全能は進化するのか?」というより、「全能という状態は、どの時点で成立するのだろう?」
という視点になりました。
オリジナルの視点まで組み込んでお題にしてくださったからこそ、思考実験としてとても楽しく考えることができました😊
これが、私なりのこのパラドックスへの回答です。
面白いお題をありがとうございました!
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