「理解できる」と「受け入れられる」は同じですか?※本文あります。
正解や不正解を決めるお題ではありません。
どんな前提から、なぜそう考えたのか、その考えに至った過程も教えていただけると嬉しいです。
ソマチッド
永遠も0レイも空くうもワンネスも統合も
ただ一つの調和のうねり渦にすぎない

しん
理解するとは、言葉や行動の理由を探し、自分の中にその輪郭を描くこと。受け入れるとは、その輪郭からこぼれてしまうものまで含めて、「そういうものがある」と認めること。
だから、「分かるから受け入れる」と考えると、少し危うい。分かるものしか受け入れないのなら、受容は理解の従者になってしまうからです。
けれど、だからといって両者を切り離すのも違うと思います。
理解しようとすることは、相手や物事に近づこうとすること。受け入れることは、近づいてもなお、すべてには届かないと知ることです。
理解だけを求めれば、分からないものまで「分かるもの」に変えてしまう。反対に、受容だけを掲げれば、「分からなくてもいい」という無関心に近づいてしまうこともある。
だから必要なのは、どちらか一方ではなく、そのあいだに立ち続けることなのだと思います。
分かろうとする。それでも、分かりきれない。その両方を抱えたまま、それでも目の前にあるものを受け入れる。
もっと日常の言葉で言えば、「知ろうとすること」と「知り尽くせないことを引き受けること」です。
夜空の星も、私たちはその光を見て、距離を測り、名前を知ろうとします。けれど、どれだけ理解を深めても、その星そのものに触れることはできない。
それでも、光は届いている。
人も、少し似ているのではないでしょうか。
分かろうとすることで、私たちは少しずつ近づいていく。けれど、近づけば近づくほど、最後まで分からない部分が残っていることにも気づく。
その「分からなさ」を消してしまわないこと。そして、分からないからといって、理解することをやめないこと。
理解とは、すべてを手の中に収めることではない。受容とは、すべてを理解することでもない。
分かることと、分からないこと。近づけることと、近づききれないこと。
そのあいだに立ち続ける。
理解は、相手へ伸ばす手。受容は、その手が届かないことを知ったあとも、手を引っ込めないこと。
私はそこにこそ、「理解すること」と「受け入れること」が、別々でありながら互いを必要としている理由があるのだと思います。

冷泉院ラグドメゼギス
理解は、成立する過程として話を聞いたり情報を集めたりします。一時的に受け入れを始めるわけです。
要は味見ですね。
しかし、ある程度まで受け入れ理解した結果、むしろ完全な拒絶へ至ることも当然にある。不味かったら二度と食べないでしょ?
例えば「絶対に許せないものだとはっきり分かる」も理解の一つの結果なわけです。
関わると面倒な人やものほど、一度触れた時点でずっと受け入れてもらえると勘違いしがちですが、理解と受容は別のもの。
理解とは「話を聞いて気持ちはわかったけど、やったことはダメだろ」です。

