存在は“する”のか“させられている”のか?

薄明
何かを始めた時にあなたは【存在】し、何かが終わって次のことを始めるまでの間【存在させられている】んだと思います。

SHO

SUZUME
するのではなく、
させられているのでもなく、
認めていると考えます。
人は毎日
膨大な情報や物質に囲まれていますが、
自分が興味を持たないもの、
意識を向けないものは
脳のフィルターによって
『存在しないのと同じ扱い
(スコトーマ/心理的盲点)』
になります。
あなたが
『認めると決めたものだけ』が、
あなたの世界を形作り、
あなたの現実になると思います。
逆を言えば
自分を苦しめる
嫌な出来事や他人の評価も、
自分が
『認めない(重要性を与えない)』事で、
自分の世界から
消し去ることができるという、
強い主体性と自由を秘めている
と考えます。

パン

Rics
「存在する」とは、自らの可能性と責任を引き受け、自分の選択の結果を自分のものとして生きること。
一方、「存在させられている」とは、自らの存在の意味や生き方を他者や社会に委ね、自分自身の選択の結果責任を取らず空虚に生きること。
同じ人でも置かれた周囲の社会環境によって変わる

憂い顔の騎士
私自身、唯一絶対あると認識しているもの

Chaba

大沢木小鉄
それは感情
哲学をより良い自身の人生に繁栄させるなら
他者との営みの中に自身を見出し
同時に自身を手放し、矛盾孕んだ自身を抱き 進み涙目し笑い歩く

サト
それを「観測している」というのは認識
認識の外にあっても存在は変わらないと思う
ノールックでボールを投げても
入るかどうかは存在に依存するから

わさびさん
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