ヨーロッパの古代哲学は問いを明確にする方向に向かったのに、なぜ現代哲学は文学的な比喩表現を好む方向に反転したのか

たくひら
ポストモダン哲学は、大きな物語、つまり多くの人の共通意識というものの中に真理が存在するのかどうかという問いを持ち、たくさんのものを解体していきました。その過程で多くの絶対的な価値と思われていたものが、相対的価値観或いは文化的価値観に基づくものであることが分かっていき、神と呼ばれる上位存在としての存在ですら、疑わなければならなくなります。
結果として、明確な言い切りが出来なくなっていく。但し書きがめちゃくちゃ増えていくんです。この但書をもしかしたら文学的な比喩表現と捉えているのかもしれません。例えば、ジジェクの民族の話はその民族の記憶と変遷、歴史を知らなければ理解しきれない部分があります。また西欧世界の哲学・思想は、その人がカトリックなのかプロテスタントなのかで大きく解釈が異なることがあります。またテキスト論が流行ったのも影響しているでしょう。こうした但し書きは、人によっては曖昧な表現と捉えられることはあるかもしれません。

たむい
色も音も目や耳を持つ存在がいなければ、単なる周波数の違いに過ぎないと。
そして色や音はヒト同士であっても同等に認識できていると言い切れない。

サト
古代ヨーロッパにも抽象的な哲学もあったろうし
現代も明確な定義をする問はある
「ヨーロッパの古代哲学」というのが
「文献参照」になって文字起こしされてるから
そうみえるだけなんじゃないかな
でも現代においては
あるいは未来においては
「言葉が増え続けてる」
ということはあるかも
古代ヨーロッパには「電話みたいに」なんて比喩出てこないし
現代「公衆電話」というものはほぼ絶滅しても言葉は残るから

tetra

