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梵我一如について説明して

できれば証明または反証を試みてほしい。 個人的には梵我一如はごく当たり前の真理だと直観的に感じるが、理性がそれを受け入れるのはとても難しい。
ほくと

ほくと

ブラフマン = 梵 = B
アートマン = 我 = A

核心命題は
¬(A ≠ B)
である。

経験世界 W を単純化すると
W = {x₁, x₂, x₃, ...}
ここで各 xᵢ は:
* 物(机、木、身体)
* 性質(赤い、重い)
* 関係(AはBより大きい)
* 事象(運動、変化)

多様性とは本質的には:
∃xᵢ, xⱼ (xᵢ ≠ xⱼ)
という「非同一性の集合構造」。
つまり世界は:
* 同じものの繰り返しではなく
* 常に差異のネットワーク
として成立する。

経験世界 W は多様性を持つため、シャンカラはこれを「見かけ」として扱う。

W = Know(B, māyā)

ここで māyā は認識関数の歪みとして働き、 B を多様な対象列 {x₁, x₂, …} に分解する作用とみなされる。

ブラフマンは通常の存在論的対象ではない。したがって:
¬Object(Brahman)
¬Change(Brahman)
¬Dependence(Brahman)

さら否定操作で構成される。「neti neti(これでもない、あれでもない)」は論理演算として

Know(B) := ¬P₁ ∧ ¬P₂ ∧ … ∧ ¬Pₙ

の極限として理解できる。すべての限定的述語 Pᵢ を否定した残余としてのみ B に到達する。

ここで重要なのは、認識主体Sは対象化できないという点である。

Self(S) → ¬Object(S)

したがってアートマンは認識対象ではなく、認識の前提条件として残る。

アートマンは通常の直観では「個人ごとの自己」があるため

A₁, A₂, A₃, …

と多数に見える。

しかしアドヴァイタではこれを否定する:

Aᵢ ≠ 複数の実体

全体としての構造は

Experience = māyā-transformation(B)
Liberation (mokṣa) = ¬(A ≠ B) の認識

となる。

この体系では解脱とは「新しい存在状態への移行」ではなく、命題の誤認解消に近い。

¬(A ≡ B) → bondage
¬(ātman ≠ Brahman) → mokṣa

という単純な論理差で記述される。
哲学哲学
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伯爵

伯爵

浅学ながら〜。

正直、知らない言葉だったので調べてみました。
なるほど、ブラフマンやらアートマンやらが出てくるのでヒンドゥー思想なのかと思いましたが、ウパニシャッド哲学なのですね。

この辺の出会いは子供の頃に読んだ「火の鳥」の影響が強いです。

一番身近なのはやはり「黄金比」でしょうか。
葉脈の構成から、宇宙銀河の渦まで幅広く、いろいろなものから黄金比が見いだせる。とか。

天体の周りには衛星があり、それと同じように分子の内部には原子核があって電子が周回している。とか。

なんというか
「この世の本質というものは、実は質量の大小や規模の大小ではなく、個は宇宙に密接につながっていて、個の中にも宇宙はある」みたいな。

宇宙を知ることは個を知ることであり、個を知ることは宇宙を知ることである。
平たく言うとこんな感じかしら?

俗な例ですけど。
人間の原始的な欲求は「生きること」と「繁栄すること」。それは細菌などでも同じだし、宇宙だって同様である(かもしれない)。
それぞれを別物だと分けて捉えるのではなく、同じものだとして捉えることが、真理の探究につながる。
といったことではないかしら?

仏教、密教、哲学なんかの寄せ集め知識なので、どれがどうかは解らないけど、私なりに解釈を説明するならこんな感じです。
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