私たちはなぜ「賢く見せよう」とするのか?
先般の問で「難しい言葉を使うのはアピールや報酬系(衒学的な側面)」というお話があり、ここをさらに深掘りしてみたいと思いました。
素人目に考えても「よく分かってないのに難しい言葉を使っても、結局ボロが出るだけ」というのは普通に分かるはずです。しかし、世の中を見渡すとそうした振る舞いが散見されるのも事実です。
「ボロが出る」と分かっていても、なぜ人は自分を賢く見せようとしてしまうのでしょうか?
個人の心理的(ミクロ)な視点でも、社会・環境的(マクロ)な視点でも結構です。皆様の考察をお待ちしています!
※場合によって、コメントで少し質問等させていただくこともあるかと思います。予めご了承ください。

エテ公

よん
私の場合文章を書いていて韻やキレなども気になるので「よくわからんけどこんな感じだろ」的なニュアンスで言葉を選ぶこともあります。一応認識が曖昧な語彙については調べますが、そこまでこだわりもないため、そのまま使用して、後から「ちょい意味ちがうな」とか「んー、ズレてる」なんてことも。
けれどそういうことって意外と昔からあったのかなって思います。たとえば雰囲気(ふんいき)を「ふいんき」と呼んだり、洗濯機(せんたくき)を「せんたっき」と呼んだり。しかも、驚いたことに、ふいんき、せんたっき、いずれも私のスマホでは変換可能でした。
話がずれました。失礼しました。
賢く見せようとする人間=Xがいたとします。
賢く見せるメリットって何でしょうね?常にX以上に賢い人がいるというこは明らかでありますから、自分が賢く見せようとした場合、その方々からは肋屋根の掘建小屋に見えるでしょうね。メリットは無いと思います。
Xより賢く無い人からは「尊敬」や「憧れ」を得られるかもしれません。しかし、上だの下だのを感じたり考えている間は、何をやっても結局は空っぽなのではないかと思います。(内面は満たされていない)
また、別のケースとしてXが「賢い子」「賢い人」にアイデンティティを持っている場合はそれを死守しなければなりません。存在証明の為に「賢く見せる」ことをするのかもしれませんね。
私たちはなぜ賢く見せようとするのか?
それは、自尊心の補充、意図的に他者を操作したい場合、自己の存在証明、はたまた気まぐれ、などではないでしょうか。私自身もまた、それらに含まれる場合が生じることはあるのではないかと思います。

伯爵
あるコミュニティに属したくなったとき、はやく仲間として認められたくて、なんかそれっぽい知識を拾い集める。
で、わかった気がしてくる。
わかった気がしてきてから、気が大きくなる。
気が大きくなってるので、自分の意見や議題が優れている気がしてくる。
こういう「ダニングクルーガー効果」のテンプレみたいな動きをして、それが他人から見たら目につくのが「分かってないのに分かったふりをしている」正体の一つじゃないかしら?
あと、単純に「エアプで承認欲求満たしたい」ってのは、多いと思います。
継続的な関係(リアル人間関係)では、ボロが出るので迂闊なことはいえませんが、グラビティの惑星なんて、誰が誰だか分からないし、恥をかいてもアカウント消せば恥ごと消えますから、エアプはし放題ですので。
(写真はLinuxの作者のコンベンションでのお姿)

たれぱん

ナトル

オジロボ

メンタイ
人間の場合、賢さになったんじゃ
ないかな〜
さんかく
賢ければバカは演じれる

ラムね
少し劣ったけど人間的に魅力のある人物像を作ったほうがやりやすいと思ってます


世紀末覇者ラ王
共通しているのは、
「ラベル社会」
というイデオロギーだと思います。
例えば、
病院の先生が「風邪です」と言うのと、
資格のない人が「風邪です」と言うのでは、
多くの人は前者を信用します。
なぜか?
“医者”というラベルがあるからです。
つまり人は、本人そのものではなく、
“ラベルを通した人物像”を見ています。
だからこそ人は、
ラベルを求めながら、
同時にラベルを嫌う。
信用も偏見も、
どちらもラベル社会から
生まれているのではないでしょうか。
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