レッテル・呪いに関する検討。詳細見ていただき、様々な考えを聞いてみたいです。
昔から、大衆が信じるものは真実とされます。呪いもまた、大衆が信じるから起こりうるものかと思われます。とある記事で血液型診断が信じられすぎて、B型というだけでマイナスイメージを持つことがあるらしいです。初対面でマイナスイメージを持たれるのは非常に生きづらいと想像できます。実際に、B型の人は恋愛や就労(面接・評価)において不利があり、収入が低いというデータがあるそうです。
これについていろんな考えを聞いてみたいです。

くらら♂
例えばりんごを言葉で表現しようとした時、『赤いもの』でもりんごは網に入る。
でもそれって『りんご』以外にも、『ポスト』や『血』なんかも一緒に入っちゃうじゃん?
だからもっと目を細かくするために、果物で、赤い、甘い、という条件を満たす『りんご』って言葉を作る。
レッテルも呪いも、網を狭めようとした結果なんだよな。
でもその時、対象を仕分けようとしてるのか、弾き出そうとしてるのかで区別と差別って別の名前がつく。この二つが同じ言葉で括られるのは不便だ、とか。あれとこれを一緒の言葉にされるのは嫌だ、とか。
でもさ、この二つってやってることは同じなんよ。問題なのは、何のためにその名前をつけるのか。そしてその、『何のために』の部分は外野からはわからないということ。
正直、言葉を使う以上はこのレッテルは必要経費と割り切るしかないと思ってる。
『バカ』という言葉を今後一切使えなくしても、それを意味する別の言葉が生まれるだけだからね。
それと、呪いとレッテルの性質の一致はマジの結果論で、元来は真逆のものであると思う。
呪いはそもそも逸話ありきじゃろ?
こんな逸話があった、とか、関わった人が祟りでこうなった、とか。まぁ、最初の逸話が嘘なんじゃね? って話は呪いに対して真摯な仮定ではないので今回は考慮してない。
呪いには、理解の及ばない事象に対する回答の側面がある。〇〇を大切にしなかったからだ、とか。
でもレッテルって、元は区別する必要が無いものを、無理やり差別するために生まれる。
これを同じものと見做してしまうのは、差別されるのには理由がある、と言ってるようなものでは?
みんなが信じることで呪いとしての強度が上がる、という意見には賛同するけど、同一視するのは違うと思います。
当方論理的思考が苦手ゆえ、論理の飛躍があればご指摘下さい。

ラムね

伯爵
レッテル=呪い、とは見事な形容で、現代でも形を変えた呪いはたくさんあると思っています。
ここ数年では『ADHD』、近年では『みいちゃん』などでしょうか。
『ADHD』は、自称のものが蔓延して「免罪符」のようになっていますね。私も”他称”ADHDだと言われることがありますがw こうなることが見込めていたので、正式な診断は受けてません。言い訳に使いたくないし。
『みいちゃん』に至っては、宜しくない流れ過ぎて、ここでの言及は控えたいと思います。
人間は社会性の生き物なので、ある種の「区分け」は自然と発生します。ですが、落語に出てくる「馬鹿の与太郎」なんてのは、今なら病名がつくのでしょうが、その時代には病名もついていません。
「あいつは馬鹿だから仕方がねえ」という扱いであるものの「だから俺たちとは違う扱いにしなくては」ではないんですよね。当たり前に仕事があり、同じ扱いを受け、なんだったら出来た嫁さんと仲睦まじく暮らしてたりする(まんが日本昔ばなし、などでもよく描写されてます)。
社会制度により保証されている現代と、どちらが過ごしやすかったのだろう?と、疑問に思うことはあります。もっとも現代の価値観から過去を見ても、それを計り知ることはできないし、危険な考察ですけれど。
意見という意見にはならず、決着もしない回答で申し訳ないですが、私の考えうるところは、こんな感じです。
ちなみに。
占い師の私がいうのもアレですが。血液型占いなんて出鱈目もいいところだと思ってます。日本ではすっかり浸透していますが、アメリカやヨーロッパでは「どうして日本人は、そんなに自分の血液型をみんな知ってるんだ?」と言われるほどだそうです。
いわゆる「バーナム効果」と言われるものの典型でしょう。誰にでも当てはまることを、さも特定の分類にだけ適してるかのように思い込むわけです。
性格はたいへんグラデーションで、心理学の世界でも、大雑把にしか分類できていないほどのものです。たかだか4つに分類できるものではないので、所詮はゲームの域を出ないのですが、MBTIと同じように、間にうけてしまう企業もあるのが現状ですよね。
Hurt

