(本文参照)人間の可能性は、社会によって育まれるのか?社会によって潰されるのか?
❶家庭・学校・職場と考えたとき、人間の可能性を育む社会とは、どのような理念や文化が浸透・実践されている社会か?
❷また、人間の可能性が潰される条件はあるのか?

II

kaede
”育くまれる”に”潰れる”は含まれるからね。

👶
未来は想像の産物にすぎない
予測不可能性が未来とも言える
想像によって可能性は大いに膨らむが実際に手元にある生きるための手数はそう多くは無い
人間の可能性を潰す社会があるとすれば今生きることがままならない社会のことだ

masa

しん
しかし同時に、その社会は人に枠を与え、方向づけ、選別もする。可能性は開かれると同時に、限定もされる。この二つは対立するものではなく、同じ働きの表裏である。何かが具体的な「可能性」として現れるには、必ず一定のかたちに絞られる必要があるからだ。
そして決定的なのは、人間がその枠に完全には収まりきらないという点である。社会から受け取った価値や規範をそのままなぞるだけでなく、ずらし、組み替え、ときに裏切る。その“収まりきらなさ”、言い換えれば固定されなさこそが、人間の本質的な性質である。
ゆえに結論としては、こう言える。
社会は可能性を生み出しつつ制約する場であり、人間はその中で与えられた形にとどまらず、それを超えていく余地を持つ存在である。そしてその余地――完全には定まらず、はみ出し続けるあり方そのものが、人間にとっての可能性なのだ、と言えはしまいか。

くま男爵

おきな ふく
私が思うのは、どちらも少し違って、
社会と言う縁によって、多少の感情、行動の差異は出るとしても、どこまで行っても、
自身の気持ち、思い、考えによってのみ
行動につながり、動く事により
開けもし、閉ざされもするのかなぁと、
感じます。
(多少、違うパターンもあるかも知れないですが)

セナ
個人の可能性に目を向けると
例えば、芸術などの分野は開花しづらいと思う。

コーユー
社会には「こういう人が望ましい」という方向性があります。それは、倫理的に良いとされるものや、経済的に価値があるものによって形づくられています。
その方向に合う可能性は育まれ、そうでないものは抑えられやすいです。また、たとえ価値がある可能性でも、役割やリソースには限りがあるので、個人レベルでは機会を得られずに埋もれることもあります。
そして、そもそも可能性は「まだ見えていない余地」です。だからこそ、進むためのビジョンと、続けるための仕組みがないと広がっていきません。
社会は可能性を広げる場でもあり、同時に選別する場でもある。私はそんなふうに捉えています。
ティリル
例えば虫と会話する能力などは最初から無いものとされます。
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