恨まないという事の圧倒的非救済性と人間の精神的要素について(本文あり)
何をされても恨まない憎まない人が居たとして、その人を傷つけてしまったとする。傷つけられた人はそもそもその傷の代償を外部に求めないので謝らせて貰えない(形として謝っても加害側の自己満足になる)。これは赦しとは正反対の態度だと思うのですが、そんな奴は居ねえ!と思うと人間の精神的な条件の一つに恨みや憎しみが要素として必須になる。これにはどーも違和感というか拒否感がある。皆さんどう思います?

風の音
なので「恨まない」の対として「恨む」という感情はなくすことができず、「恨みからの敵討ち」が法律で禁止されてることからわかるとおり、法律を作るほどその感情は昔から存在してなくならない感情ではないかと思います。
腕を切られても両足を切断されてもけして恨まないひとがいるとすると、その人は「他人をけして恨んではいけない」という信条や悟りに至っただけであって、一瞬発生する怒りや恨みを瞬時にそれらが消しているだけのように思います[笑]
もし、何をされても反応しない人が存在したとしても、その周りの人たちが「恨みや憎み」を持ち、被害届や訴訟を起こすように思いますが、いかがでしょうか?[笑う]

正宗(ろー)
加害に関しては罪というレイヤで、
赦しを得るのは関係性レイヤで、
許されるは自己の認識というレイヤ、
と考えました。
罪を贖うのは、自己の問題であって、ここに赦しは直接の主題ではないと思います。
(赦しは関係性レイヤのため)
関係性レイヤにおいては、相手が外部に罰等の感情を持っていないため、この場合は赦し以外の何が必要になるかを、相手から確認しないとなりませんし、場合によっては関係修復はできないかもしれません。
(ここは、前提として、相手の判断で一方的中に関係性が切れるのを、モラル的に許容しがたいという前提があるかもしれません)
赦さるに関しては、相手が赦すと言ったところで、実際には赦していないかもしれません。
上司やママ友だったりしたら、赦してなくてま、関係性やその後のデメリットを計算して、赦さざるを得ない場面もあるかもしれません。
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まとめると、人間関係を継続・修復/終わらせる選択権と決定権は、彼我に双方に有り、自分の倫理観や社会規範とは別に存在し、かつ、自己のモラルと緊張関係にある場合、不整合を感じやすい、ではないでしょうか。
私は別回答で『正しさ』は関係性の中にあると記述しましたが、ノード(個)を主体にすると本文は難しい議題になると感じました。
ただ、私の回答は構造を記述しただけなので、これと個人の感情、社会規範や社会影響はまた別に存在していて未解決のままです。
そして、罪は救済されないという残酷な現実が残りますね。
加害した相手から赦されるのも、懲役に服して刑期を終えるのも、神に赦しを乞うのも、これらは人間側が作りだした装置ないし虚構であって、罪が赦されるとは直接的な関係は無いかもしれません。
犯した罪を背負い続けるのは、個にも社会にも有益にならないと、経済的・合理的に判断され、赦される仕組みを人間側が作ったとも考えられますが、
罪という概念も人間が作り出したものなら、人間が作った装置としての救済は成り立つと考えます。
つまり、どこに帰属する罪なのか、も考えた方が良さそうですが、そっちに話題を移すと論点がズレるので、ここでいったんクローズします。

くりまんじゅうG
“怨みつらみ”は人を構成する要素のひとつですので抑制するのではなく、感情の揺れを静観する事が大切だと語られています。

並行次元

双六なおき

れん
傷つけられたと感じるのか?が
疑問です‥。
謝罪も加害も全て主観でしかないですよね。

