「多様性」という言葉が一人歩きしているような気がするが、本来「多様性」とはどのような観念であるか?

正宗(ろー)
『普通の人』、『ちゃんとしてる人』、『正しい人』は存在しない。
みんな変人。みんな欠けている。
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[星2]要点
自分が人の言動で不快を感じ時に、自分を『正しい側』に置くと、相手は『正しくない側』になるため、この認知短絡を崩すための概念。
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[星2]深掘り
哲学の星のような『場』があるとき、この『場』への適応のしやすさには個人差があります。
具体的には、
▸ 鼻歌を歌いながら自然に適応する人もいれば、
▸ 5歩歩み寄らないと適応しない人もいれば、
▸ 20歩歩み寄らないと適応しない人もいれば、
▸ 50歩歩み寄らないと適応しない人もいます。
これは、『場』には求められる振る舞いがあり、一方で、人間には個体差やパーソナリティ特性があるので、この構造は必然的に置きます。
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従来の考え方では、『場に適応しているか』という評価軸で一様に判断する傾向が強かったのですが、ここに『この人は何歩くらい歩み寄ってくらているのか、どれだけ歩み寄って来ているのか』という評価軸を獲得するために多様性という概念が貢献します。
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従来的な、『場』に整合的かという判断軸ももちろん必要です。【重要】
ここが多様性の1人歩き問題に通じます。
『場』に整合するかは、人間が社会生活を送る上では必ず要請されます。
人の身体を痛めつけることを快感に思う人もいれば、裸で外出したい人もいますし、手っ取り早く強盗や盗みをしたい人もいれば、授業中に走り回りたい人もいるでしょう。
でも、『場』は皆で共有しているものなので、『図書館で焼肉を焼く』的な振る舞いは、
▸ 規範で抑制されるか、
▸ 文化的に抑制さらるか、
▸ モラル的に抑制されるか、
▸ 罪と罰で抑制される𝒆𝒕𝒄.
する必要があります。
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私が哲学の星で低努力回答について言及したのもこれが関わっていて、哲学の知識には必ず個人差があります。
そして、SNS空間やコミュニケーション空間、コミュニティですから、その認識や適応力にも個人差があります。
故に、『場』に適応しやすい人もいれば、『場』に合わせるのが難しい人もいます。
同時に、コミュニティとしての質や秩序も維持する必要があります。
だからこそ、『適合しているか』という判断軸と『努力量(歩み寄るための歩数)』という2つの


ぽみ

ハリー

白鴉🐦⬛
今の多様性は他人に押し付けて強制、武器にする時点で多様性ではない

風の音
マンガ「魔入りました入魔くん」を読むと、さまざまな悪魔たちが学校社会の中に存在するので「本来の多様性」に触れることができます[ウインク]
基本的に人権尊重につながる概念ですが、軍隊やポリス等、“組織的行動を必要とする”強度が強くなるほど多様性は認められず、バラエティー番組等“ハプニングを重視”な場においては多様性を強く求められます。
“一人歩きをしている”ように感じる原因は、その中において多様性を求められる強度と当事者の言動がかけはなれている状態で、当事者は言い訳・逃げ口上としてその言葉を使用し、感じている側はそういった番組などを見る機会が多いかと思われます。

た に

シフ
独り歩きしているのは『多様性を認めろ』という主張だと思う。
自分の悪、異常行動を『多様性の一環だから認めろ』と言う。
本来は『それが害をもたらさないものであるならば非難するべきではない』の意味だと思う。
『自由』と同じ。

夏目

魚屋ゆう
それが本来の形に戻っているのかもしれない
「多様性」という言葉を言い訳に使っている事例が増えた事で、当たり前が特別に変換されているだけ

クロスケ
自分以外にも"ヒト"は存在し、その数だけ考えや価値観が違うことを理解すること。
十人十色
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