カントの言う他者の手段化についての違和感
カントの言う「汝の人格やほかのあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」という言葉は人の行為から利己性を剥がせないという点において手段化を避けられないように思います。
例えば悩みを抱えた友人を助けようと話しかけることって自分が助ける側でありたい、自分には助けられる能力があるという前提や欲求があるかと思います。その人の幸せを願うことでさえもそれを観測することの快を求める他者の手段化になるように思えるのです。
手段として「のみ」扱うことを禁忌化しているので一部そういったエゴは認められるように読めますがその塩梅で是非を決めるのってその人の匙加減でしかなくて他者の手段化の正当化のように思えるのです。
あくまで概念を知っているだけで彼の書籍を読んだわけではないので有識者の方。それだけでなく皆さんのお話も聞きたいです。
Hurt

ベル

tk
私は、手段化なしに他者と関わることは不可能と思います。
(話しかける、助けるという行為は自身の「目的」を達成するための「手段」なので。)
ただ私が思うに、カントが伝えたいことは特に前半部分で、
相手が「その人でなくてはならない」という一意性を保持している限り「尊重」の範疇に入るよ。
ということではないかな?という解釈になりました。
つまり、相手を「代わりのきくもの」と思わず「固有な存在」として扱いなさい。
と言ってるのかなと考えました。

