共感で繋がるSNS

言葉は理解を助けているのでしょうか。それとも理解を制限しているのでしょうか。

たぬき

たぬき

根拠となる文献資料等はありませんが
「理解」のとした場合
やはり母語の言語体系が重要と思います。
その点において日本語はかなり強い優位性があるような事を聞いたことがあります。
日本語の事象の整理がとても数学的に合理的な設計がされていると言われているらしいいし
私としてもこの理解は妥当と考えます。
そのため言葉は「理解」の助けになっています。
また、制限を考えた場合
これは日本語のみならずすべての言語に当てはまりますが
言語的表現形態がない場合が多くあり
そこは制限と言えるでしょう。
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY5
黒い卵

黒い卵

浅いレベルで助けて、深いレベルで阻害する
のでは
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY1
ななな

ななな

どちらとも言えそう
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY22
冬寂

冬寂

ということは、言葉なしでの理解なるものがあると想定している?
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY
ヤス

ヤス

口のうまさと置き換えると、違うように思える。
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY
j

j

本議題に関する自分の仮説を提示します。
「言語は、形而下の物事に対しては理解を助けるものである。形而上の物事に対しては、それを認識しようと試みる際の道具として機能するのではないか。」
本議題に関して、前期ウィトゲンシュタインの記述をなぞるような回答が恐らく現在までの哲学における最も近しい回答になる、という個人的な解釈を最初に提示した上で、あえて今回は前期ウィトゲンシュタインを批判的に克服することを試みる立場を取ってみたいと思います。
 前期ウィトゲンシュタインの主張を本議題に当てはめるとして、まずは「言語は物事の写像であり、最適化された写像体系を目指せば形而下の物事に関する記述は可能である」という些か極論のような主張がまず可能になっていきます。そしてここから演繹のような形で本議題に当てはめると、形而下の物事に関しては理解を助けうるものであり、形而上のものに関しては理解を制限する。という、ある種の二元論が始まっていきます。しかしこれはウィトゲンシュタイン本人も主張するように、批判的に克服することを求められている点でもあります。では形而上のものに対して、どうアプローチするのか、ということについて。これにはある種、確率論的なものが考えられます。ここでは具体的に立式しませんが、例えば形而上のものを認識しようとする主体について、その主体がどのような変数として形而上のものを認識せんと試みているのか?ということを考えていくと、ある程度の立式が可能になります。そしてこれは言語がある程度形而上の認識のための道具になる、という仮説の一応の根拠にはなっていくわけです。
結論として、形而上のものを理解することに対しても、ある程度言語を使った「絞り込み」は恐らく理論的にある程度説明できるのかな、という仮説を提示させてもらいます。
哲学哲学
GRAVITY6
GRAVITY19
グン

グン

助けています!
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY
あろん

あろん

言葉で理解を助けられるのは語彙力がある人に限る気がします。ない人は言葉でむしろ自分の首を締めることも多いですよね。(私)
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY32
白鴉🐦‍⬛

白鴉🐦‍⬛

言葉がある事に理解が深まるのは当然だけど
百聞は一見にしかずと言う諺があるように言葉では全然通じないものもあるからこの問いは非常に面白い
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY3
まさたか

まさたか

言葉の使い方によって、理解の内容が変わりますが、本来なら理解を助けています。
言葉遊びのような例になってしまいますが、指示として「早く投げろ」と言われた時、身の回りで投げられる物を探して持って投げます。この動作が遅ければ、また「早く投げろ」と言われて急いで投げます。指示としては「速やかに拾って早く投げろ」が正しい状態で、相手の理解を助けていると思います。
5W1(2)Hの「誰が」「いつ」「なにを」「どこで」「何故」「どのように」(「いくらで」)をきちんとまとめていれば理解を助け、どれかが欠ければ(例えば、「おい、あれ」とか)、理解の制限がかかると思います。
哲学哲学
GRAVITY
GRAVITY4
もっとみる