言葉は理解を助けているのでしょうか。それとも理解を制限しているのでしょうか。

黒い卵
のでは

冬寂

ヤス

j
「言語は、形而下の物事に対しては理解を助けるものである。形而上の物事に対しては、それを認識しようと試みる際の道具として機能するのではないか。」
本議題に関して、前期ウィトゲンシュタインの記述をなぞるような回答が恐らく現在までの哲学における最も近しい回答になる、という個人的な解釈を最初に提示した上で、あえて今回は前期ウィトゲンシュタインを批判的に克服することを試みる立場を取ってみたいと思います。
前期ウィトゲンシュタインの主張を本議題に当てはめるとして、まずは「言語は物事の写像であり、最適化された写像体系を目指せば形而下の物事に関する記述は可能である」という些か極論のような主張がまず可能になっていきます。そしてここから演繹のような形で本議題に当てはめると、形而下の物事に関しては理解を助けうるものであり、形而上のものに関しては理解を制限する。という、ある種の二元論が始まっていきます。しかしこれはウィトゲンシュタイン本人も主張するように、批判的に克服することを求められている点でもあります。では形而上のものに対して、どうアプローチするのか、ということについて。これにはある種、確率論的なものが考えられます。ここでは具体的に立式しませんが、例えば形而上のものを認識しようとする主体について、その主体がどのような変数として形而上のものを認識せんと試みているのか?ということを考えていくと、ある程度の立式が可能になります。そしてこれは言語がある程度形而上の認識のための道具になる、という仮説の一応の根拠にはなっていくわけです。
結論として、形而上のものを理解することに対しても、ある程度言語を使った「絞り込み」は恐らく理論的にある程度説明できるのかな、という仮説を提示させてもらいます。

グン

あろん

白鴉🐦⬛
百聞は一見にしかずと言う諺があるように言葉では全然通じないものもあるからこの問いは非常に面白い

まさたか
言葉遊びのような例になってしまいますが、指示として「早く投げろ」と言われた時、身の回りで投げられる物を探して持って投げます。この動作が遅ければ、また「早く投げろ」と言われて急いで投げます。指示としては「速やかに拾って早く投げろ」が正しい状態で、相手の理解を助けていると思います。
5W1(2)Hの「誰が」「いつ」「なにを」「どこで」「何故」「どのように」(「いくらで」)をきちんとまとめていれば理解を助け、どれかが欠ければ(例えば、「おい、あれ」とか)、理解の制限がかかると思います。

夜の魚

シフ
言葉に限界があるとしても、それならその部分は別のツールを使えばいい話であって言葉が人間を制限しているわけじゃない。
だから図を用いて示したり、身振りを加える。
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